皆さん、こんにちは。
Matephysiです。

いかがお過ごしでしょうか。

今回は、僕が読書に魅了されている理由を紹介できればと思います。

読書に対して漠然としたあこがれはあるけど、
わざわざ時間を取るほどの気概もない
読書したいと思っても毎回途中で投げ出してしまう

そんな方はぜひご一読いただき、
ご自身の読書モチベの向上に活かしていただければと思います!

なぜ読書するのか

僕が読書をするのは、

心地よい快楽を得られるから

です。

趣味が読書であると公言しているからと言って、
インスタやYouTubeを見ないわけではありません。
時にはドラマや映画を見たり、ゲームもします。

最近では、犬や猫のペットの動画や猫ミームを
気付けば一時間以上見続けていた、なんてこともあります。笑
(人の顔より他人のペットの顔を見ている時間の方が長いかも、、、)

それらは暇つぶしに最適で、
やるハードルも読書に比べて極めて小さいです。
それらをしている間は、他の欲求や小さな悩みを忘れられるほど熱中し、
簡単に興奮や快楽を得ることができます。

ただ、僕にとってそれらの唯一の問題点が
辞め時が分からないこと
一時中断しても、もっとやりたい、やらなければならないと感じてしまうこと
です。

やっているときは多幸感や興奮を覚えて快感ではあるのですが、
ある段階から依存状態に陥り、
いざ終わったときの疲労感が半端ではありません。

往々にして
時間を無駄にしたんじゃないか
ほんとはやるべきことがあったのに

と、後から少しの後悔を感じたりもします。

しかしながら、僕はこれらの過度な快楽と後悔を読書では感じません。

もちろん、これには僕自身の認知の歪みが関係しているかもしれません。

幼少期のころから、テレビやゲームはいい事と扱われず、
時間が制限されるような対象でした。
その一方で、読書に対してそのような制限はありませんでしたし、
むしろ読書は推奨されていました。

そのため、今でも、テレビは全く見ません。
ゲームなどの娯楽は、常に何かに対するご褒美として認識してしまいます。
その一方で、読書はその行為そのものが肯定される活動として認識されています。

すなわち、読書をすることで僕は
読書をするという判断
読書をしている時間
読書をしている自分自身
それら全てを肯定することができるのです。

文字に起こすと少し病的な感じもしてしまいますが、、、

読書から得られる自己肯定感と知的な充足感、
そして熱中した後の心地よさ、後悔のなさ

が僕が読書をする根本的な理由です。

読書に対する本音

究極の人間観察として

ただ、本であればなんでも読むかというと
そういうわけではありません。

読書リストを公開しているので、
それを見ていただければ察していただけるとは思うのですが、
僕の興味関心はあくまで
人間全般に共通する特性
時代や文化、価値観の違いによる思考や行動の差異

です。

すなわち、読書は究極の人間観察なのです。

僕は、多くの人がアニメや漫画を読むことで満たしていると思われる
現実逃避のような役割を読書に求めていません。

むしろ、現実で起こる複雑な現象の要素をモデル化
あるいは凝縮して顕在化して取り出し分析すること

読書に求めています。

読書に対する一般的理解との差異

一般には、趣味と聞くと娯楽をイメージするらしく、
面白いSF・ファンタジーや推理小説を聞かれて答えられず、
毎回申し訳ない思いをします。

迂闊に哲学書や思想書が好きだと口にしてしまえば、
直ちに厄介な人としてみなされ、嫌煙されます。
さらには、そんな本を読むなと謎に説教までされる始末です。

申し訳ないと思いながら、
なぜ多くの人にとって読書は娯楽程度の認識なんだろう
と疑問に思ってしまいます。

読書は、
現実世界で意図せず、そして不幸にも遭遇する
数々の不合理で理不尽な出来事に立ち向かうための武器を鍛えるために
先人の知恵を借りる行為

という側面も持っているのではないでしょうか。

残念ながら、現在はその側面があまりにも過小評価されているように感じます。

僕にとって読書は現実逃避ではなく、
現実と向き合うための人生相談
なのです。

傲慢な本音

今の社会で読書に付きまとう印象は

マウンティング

でしょう。

読書について語ろうものなら、
虎の威を借りる狐のように、少し読書して得た知識をひけらかす愚か者
付け焼き刃のような知識を使ってマウントする不届き者
知らない言葉で畳み掛け不安にしてくる加害者
などというレッテルを張られかねません。

正直、この風潮に物凄く違和感を覚えます。
僕たちはただ共有したいだけなのに、、、と。

なぜそのような認識が広まってしまうのでしょうか。

得られた知識の深化とフラット化

読書をすれば、ある立場からの知識を得ることができます。

しかしながら、得られるものはあくまで
「今の自分」というフィルターを通して得られた偏った知識
です。

よって、
自分の読み方や認識は正しいのか
まだ理解できていない知識はあるのか
自分の得た知識が偏見に満ちたものになっていないか
を確認したいのです。

読書に必要な情報の再取得

別に誰かと共有する必要なんてないだろ
と思う方や
結局、知識をひけらかして承認欲求を満たしたいだけだろ
と思う方がいらっしゃるかもしれません。

その側面も完全に否定することはできませんが、
そうではない側面もあります。

議論を通して自分の認識を深化、フラット化した上で、
再度、自分の問題意識に立ち返ることで、
読書前には見えなかった世界を見ることができるようになります。

そして、新たな視点に立つことで
自分自身の問題に対する新たなアプローチが可能になるのです。

すなわち、読書をし、その後議論することによって
次の読書に必要な情報を収集することができるのです。

鬱陶しいと思われる理由

これまでの経験上、読書をする方とはスタンスは一致しているように感じます。

それでも、なぜ「趣味は読書」な人はそうでない人にとって
鬱陶しい存在
となってしまうのでしょうか。

別の趣味、例えばアニメや釣り、ツーリングなどに関しては
そのような趣味を持っていない人でも
読書に対して感じる不快感を覚えることはないでしょう。

そこには、読書特有の何かがあると言わざるを得ません。

1. 読書の権威性

理由の一つは、コンプレックスを刺激するからではないでしょうか。

識字率が100%に近いと言われるほど充実した義務教育が行き届いている日本において
本は教育において必要なツール
として、教育との関係性が切っても切り離せない状態で認識されています。

すなわち、読書には、教育、あるいは啓蒙という
知識不足を指摘し、それを補うことで人間を高めることができる権威性
が無自覚にも内包されているのです。

そのため、そのような権威に逆らっている状態、平たく言えば
教育をさぼっている状態
に対しては罪悪感を覚えずにはいられません。

読書を趣味だと言われ、
自分自身が読書、すなわち自己の教育をさぼってる状態だと自覚させられることで、
義務教育過程で培われたコンプレックスが刺激される
ことが
読書が趣味だという人に対するある種の不快感の根源にあるのではないでしょうか。

2. 「趣味」という適度な距離感

次に、他人に対していつ趣味を語るのかに着目すると、
読書の空気の読めなさが見えてきます。

そもそも、趣味の辞書的な意味は、次のようなものです。

仕事・職業としてでなく、個人が楽しみとしてしている事柄。
どういうものに美しさやおもしろさを感じるかという、その人の感覚のあり方。
物事のもっている味わい。おもむき。情趣。

https://www.weblio.jp/content/%E8%B6%A3%E5%91%B3

さて、日常生活において自分の趣味について語るのは、
大抵は自己紹介のときではないでしょうか。

つまり、自分自身を知ってもらい仲良くなるきっかけとして、
あくまで他者との間で共有可能な当たり障りのない物事
である「趣味」を口にする
のです。

もちろん、幼少期から続く経験と学習の結果として無意識に趣味を語ることができますが、
冷静に考えてみると、
趣味という単語が持つ意味と、自己紹介における「趣味」という言葉には若干の差がある
ように感じられます。

我々が「趣味」に求めている役割はあくまで交流のきっかけであって、
趣味自体について真剣に議論することではありません。
「趣味」として取り上げられた事柄は、
誰からも触れられずに宙に浮いているのが基本的な状態です。

すなわち、自己紹介という日常的な文脈では、
趣味で触れた内容について深く立ち入ることはせず、
また趣味が個人の領域を出て他人に影響を与えることも期待していない

のです。

しかしながら、読書家は前述の理由から
趣味・読書について語り合うこと
を求めています。

少なくとも僕自身は、趣味は読書、と言ってしまう人間として、
人間関係におけるそのような絶妙な距離感
を履き違えている
のかもしれません。

3. 読書家の発狂

以上の理由から、趣味の読書を通じて期待するほどの交流ができない読書家は
理解されない孤独感のような苦しみを感じていることでしょう。

時にそのようなストレスが爆発していると感じる場面に出くわします。

それが、

みんなもっと本を読めよ!!!

と怒りを露にする場面です。

しかしながら、これをやってしまうとますます読書離れが進んでしまうのは
想像に難くありません。

むしろ、このような発狂は
読書をしている人にはどこか堅苦しく、時代遅れ感がある
という固定観念をますます強固なものにしてしまいます。

正直、気持ちはすごく分かります。
僕自身も堅苦しい人間なので、
SNS映えとか男磨きとか、表面をいかに着飾るかに注力するのと同じ熱量で、
脳みそも鍛えてくれよと思ったりします。(小声)

ただ、各自が読んだ本を持ちより、忖度なく意見を交換し議論し、
それぞれの問題意識を共有しながら、全体に対する視点も持ち合わせることで
自律的に考えられる個人が構成する共同体や文化が形成されてほしい

という最終的な望みをかなえるためならば、
ストレスに駆動され感情的に誰かを非難することは我慢しなければなりません。

読書術

さて、ここでは、他の趣味よりもややハードルの高い読書を継続するために
僕がやっている読書術を紹介します。

読書を習慣にしたいけど何から始めればいいのか分からない。
読書を始めても毎回挫折してしまう。

そんな方はぜひ参考にしていただければと思います!

1:何を求めているのか

まず、表紙や帯、あらすじを読み、

自分はこの本を通じて何を得ようとしているのかを予め明確にしておく

と良いと思います。
もちろん、それが自分自身の問題意識や興味関心に近ければ近いほど理想的です。

例えば、
現実逃避をして、自分の理想とする世界観を旅したい。
哲学って何だろう。概論を学びたい。
歴史上のとある人物に興味があるから、彼・彼女の一生を知りたい。
そもそも読書がどういうものか分からないから、手始めに本を一冊読み聞いたい。
というような希望を叶えてくれる本を探し、手に取り、読むのです。

ただ、

Don’t judge a book by its cover.
(本を表紙で判断するな / 物事を見かけで判断するな)

ということわざもある通り、
当初の予想や思惑は大抵裏切られます。

しかしながら、目的を明確化しておくことで、
裏切られた事柄も明確に認識することができ、
新たな視点や知識、価値観を得たという感覚を得ることができる
でしょう。

この裏切られた感覚こそが、次の読書につながるモチベーションとなります。

明確な目的意識を持って本を買い、読むことが
読書の習慣をつける上で大切だと思います。

2:1時間タイマー

本が目の前にあっても、どうしてもスマホに手を伸ばしてしまう、、、

そんなときは、1時間タイマーをスタートしてみてください。

僕もまだ理由は言語化できませんが、
なぜか読書のスイッチが入ります。

一度読み始めればこっちのものです!
恐らく1時間なんてあっという間に過ぎ去るでしょう。

3:環境整備

最後に、読書はある程度の集中力を要するので、
環境を整備することも大切です。

特に僕がお勧めしたいのが、音と匂いの整備です。

読書をしているときに言葉が耳に入ると、どうしても思考が中断され、
集中力が途切れてしまいます。
そのため、僕は読書をするときクラシック音楽を聴きます。

最近では、テーマに沿ったクラシック音楽をまとめてくれた動画もあり、
読書には欠かせません。

読む本の種類やテーマに応じて、
音楽の重厚感や爽やかさなどを変えてみるのも効果的
です!

また、自宅で読書をするときはお香を焚いたりもします。
集中力を発揮するためには、リラックスすることも大切だからです。

ぜひ、自分自身の読書環境を整備してみてください!

終わりに

以上、読書についてまとめてみました。

技術やインターネットの発達によって
わざわざ紙の本を読む必要性は日に日に低くなっていると感じます。
むしろ読書は非効率なようにも感じてしまいます。

しかしながら、読書を軽視する風潮は、
目先の利益や感情、流行に流されて一喜一憂する姿勢を強め、
じっくりと考え議論し、本質を見抜こうとする態度を養いません。

読書は論理の構築という過程に対して適度な反復的負荷を長期間かけることができるので、
思考力の涵養にとって必要不可欠なのではないでしょうか。

相手の立場に立って考えることができ、
また、自分の意見も論理的に主張することがなければ、
互いを理解し認め合うことはできないでしょう。

そのような人々が集まる集団が、良いものだとは到底思えません。
ただ、誰しもが居心地がよく立派な集団な中で生活したいものです。

良い集団を構成する自律した一個人となるためには、
読書を通じて自分を鍛えるしかないのではと思います。

この記事を読んで、読書をしてみようと少しでも思っていただければ幸いです。

ご覧いただきありがとうございました!
是非、次回の投稿もお楽しみに!

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