皆さん、こんにちは。
Matephysiです。

去年のクリスマス頃はコロナの感染拡大がひと段落し、
マスク・手指の消毒・手洗いうがいを徹底していれば何とかなりそうという雰囲気が漂っていました。

しかし、最近は僕の周りでも続々とコロナ感染者が増加していて、
その影響がすぐそばまで来ているなと感じます。

そのような状況の中で、僕は

コロナには感染したくないから、出来るだけ人との交流を避けたい
感染者は出来るだけ人に合わないように努力してほしい

という感情はあるものの、それらと同時に

果たしてそれは人間の生き方として善いものだろうか。
感染を恐れることと人間らしく生きていくことを天秤にかけたとき、
どちらが優先すべきなのだろう。
そしてそれを誰が正しく判断出来るのだろう。

と、現状に対する違和感も感じます。

人間の「生」とは何なのか。その対極にある「死」とは何か。

あるときそんなことを考え、前向きに生きるためにそれらを再定義しようと思って書いた文章があります。

たまたまお正月頃だったので、
「あけましておめでとうございます」
という挨拶を足がかりに主張を展開させています。

このようなことを考えていたときに出会ったのが、

「ホモ・サケル ― 剝き出しの生」

と呼ばれている、イタリアの哲学者、ジョルジョ・アガンベンが提唱している概念です。

アガンベンは人間の死生観から、社会や権力の在り方を議論しているようです。

コロナに感染していない人々が、感染のリスクがあるからという理由で
無症状の感染者としてその行動を規制されることが容認される社会。
果たしてそのような社会で、人間は尊厳ある人生を全うすることは出来るのか。
そのような社会にどのように問いを投げかけ、どのような処方箋を提示するのか。

そんなことを気にしながらアガンベンの著作を読んでみたいと思っています。

例えば、僕は下記の2冊を買いました。

以下のウェブサイトは本を買うかどうかの判断材料になるかもしれません。

・webゲンロン「東浩紀インタビュー「生き延びる命とは 新型コロナ」──『朝日新聞』2020年8月5日号に掲載」

・阿部里加「剝き出しの生」をめぐるG・アガンベンのアーレント批判を考察する―われわれは回教徒になりうるのか―

・ADAM KOTSKO「Giorgio Agamben: A Question」

もし気になった方は是非お読みいただき、感想や考察等を教えていただければと思います。
僕も出来る限り時間を見つけて、読み進めたいと思います。(時間が欲しい。。。)

ご覧いただきありがとうございました!
是非、次回の投稿もお楽しみに !

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