皆さん、こんにちは。Matephysiです。
いかがお過ごしでしょうか。

今日は世界的に有名な曲、The Beatlesの「let it be」の歌詞を取り上げ、
深堀りしたいと思います!

リズムに乗せずに歌詞を音読するのが難しいほど、有名で何度も聞いたことのある曲ですね!
ピアノのリズムとボーカルのポールの歌声が心地よいです。
また、1969年に収録したというMVが高画質で見れるというのも、非常に驚きです。

「Let it be」歌詞の和訳

決して難しい歌ではないので、中学レベルの英語を学習済みの方であれば
Let it beの歌詞の意味は理解できるかと思います!

有名な曲でもあるので、ここでは簡単に歌詞を和訳してみましょう。

When I find myself in times of trouble, mother Mary comes to me
Speaking words of wisdom, let it be
And in my hour of darkness she is standing right in front of me
Speaking words of wisdom, let it be

災難に見舞われていたとき、聖なる母メリーが僕のところにきて
こんな教えを話してくれたんだ、「let it be」と。
そして、絶望の中にいた時も彼女は僕の真ん前に立っていて
こんな教えを話してくれたんだ、「let it be」と。

Let it be, let it be, let it be, let it be
Whisper words of wisdom, let it be

「let it be」「let it be」「let it be」「let it be」
教えを唱えてごらんなさい、「let it be」と。

And when the broken hearted people living in the world agree
there will be an answer, let it be
For though they may be parted, there is still a chance that they will see
there will be an answer, let it be

さらには、この世界に住んでいる打ちひしがれた人々が手を取り合うとき
そこには啓示があるでしょう、「let it be」と。
彼らはバラバラになるかもしれないけれど、依然として彼らが理解するチャンスは残されているんだ
そこには啓示があることを、「let it be」と。

Let it be, let it be, let it be, let it be
Yeah, there will be an answer, let it be

「let it be」「let it be」「let it be」「let it be」
そう、そこには啓示があるでしょう。「let it be」と。

And when the nights is cloudy, there is still a light that shines on me
Shine on until tomorrow, let it be
I wake up to the sound of music. Mother Mary comes to me
Speaking words of wisdom, let it be

また、闇夜が曇っているときでも、そこには私を照らす光が依然としてあるのです。
明日まで照らしてくれるような光が。「let it be」
音楽の音色で目を覚ました。聖なる母メリーが僕のところにきて
こんな教えを話してくれたんだ、「let it be」と。

(繰り返し部分は省略しています。)

和訳上の注意点1―文構造と文法

文構造のパターン

単語も文法も、文の構造も極めて平易です。
感銘を与える言葉遣いに小難しい言い回しなど不要なのだなと感じさせられます。

文構造は特に分かりやすい繰り返し構造をしていますね。
基本には次のような構成がなされています。

  1. 情景描写
  2. 「let it be」という合言葉について
  3. 別の情景描写
  4. 「let it be」という合言葉について
  5. let it be, let it be, let it be, let it be
  6. 「let it be」という合言葉について

Speakingの主語について

しかしながら、パターンが簡単だからと言って、
ただ英単語を日本語にして上手に繋げればいいというわけではない
ことに注意が必要です。
特に、前半部は 『「let it be」の合言葉について』の部分が
不完全な形の文章なので先入観によって誤訳しやすいのではと思います。
(後半部はthere will beという節なので、それほど誤訳しないのではと思います。)

When I find myself in times of trouble, mother Mary comes to me
Speaking words of wisdom, let it be

まず、冒頭の2文目では、Speakingは現在分詞形をしています。
つまり「SがVしている状態」を表現しています。

では、主語は誰でしょうか?

もちろん、僕の方に来てくれたmother Maryが主語です。

したがって、この部分を直訳すれば次のようになります。

災難に見舞われていたとき、聖なる母メリーが僕のところにきて
「let it be」という知恵の言葉を話しかけてくれたんだ。

Whisperの主語について

続いて、次の部分はどうでしょうか。

Let it be, let it be, let it be, let it be
Whisper words of wisdom, let it be

2文目のWhisperは動詞の原型です。
つまり、文法の原則によるとこの文章は命令文です。

では、誰が命令しているのでしょうか?

冒頭ではSpeakingの主語はmother Maryでしたので
文構造のパターンを考慮すると、mother Maryが主語である可能性が考えられます。

したがって、この部分を直訳すれば次のようになります。

「let it be」「let it be」「let it be」「let it be」
「let it be」と知恵の言葉をささやきなさい。

しかしながら、これだと急に世界観が変わってしまって奇妙です。

もともと聖なる母メリーが「let it be」と話しかけてくれたのでした。
また、speak(話す) も whisper(ささやく)も「単語を声に出して読む」という共通点を持つ似た単語です。

したがって、命令文という構造をしていますが、付加疑問文のように訳してあげることで、
この曲が持つ優しく寄り添ってくれる雰囲気を壊すことなく、適切に訳すことができます!

よく見かける誤訳と補足

ちなみに、この文章が「作品の都合上、主語を省略した文」と捉えることもできなくはありません。
その場合、whisperが三人称単数形でないことから、聖なる母メリーは主語には該当しません。

この点を見誤ると、単なる文構造のパターンからの類推で、
『聖なる母メリーは「let it be」とささやきました。』
と誤訳してしまいます。

また、主語は私であり、それが省略されていると考えることもできますが、
『「let it be」私は「let it be」とささやいています。』
という何とも奇妙な歌詞になってしまいます。

わざわざ文法の規則を破り主語を省略してまで表現しなければならない必然性は感じません。
やはりこの部分は「命令形」として訳すのが妥当だと思います。

実際に「let it be 和訳」などと調べてみると誤訳しているものを多く見かけました。
詩的で感情移入しやすい文章なだけに、尚更文法に即して厳密に訳してあげる必要があります。

和訳上の注意点2―単語の意味

和訳する際には文構造と文法に注意を払う必要があることを取り上げました。
ここでは、単語の意味に対して注意を向けてみましょう。

もちろん、書かれている通りに直訳するのが鉄則ではありますが、
少しばかり意訳すると、歌詞が表現する世界観をより身近に感じ取ることができるようになります!

words of wisdom

例えば、「words of wisdom」はどうでしょうか。

「単語」を意味する「word」の複数形
「所有・所属」を意味する前置詞の「of」
「知恵」「賢さ」を意味する「wisdom」

からなるフレーズなので、直訳すれば「知恵の言葉たち」です。
しかしながら、このままでは言わんとしていることが分かりそうで分かりません。

そこで、「私たちの生活に知恵を授けてくれるようなフレーズ」と解釈し、
「名言」「教え」「先人の知恵」
と訳すのがいいかなと思います。

an answer

また、後半部に頻繁に出てくるのが「an answer」です。

カタカナ「アンサー」としても馴染み深い初級の英単語なので皆様お分かりかと思いますが、
直訳すれば「答え」です。
つまり、「There will be an answer」とは「答えがあるだろう」という意味なんですね。

しかしながら、やはりこのままではあまり直感的には理解できません。

なぜ急に「答え」について触れたんだろう?
いつ誰が「答え」を要求したんだろう?
それは何に対する「答え」なんだろう?

先人の知恵について話していたはずなのに、急に「答え」は陳腐では?
悩みや絶望に「答え」はあるの?

分かりそうで分からないからこそ、疑問は尽きません。
ここで、簡単な単語であるが故に素通りしてしまう「answer」という単語をもう一度見直す必要があります。

「answer」の語源を調べると、次のような記述が見つかります。

中英語のanswereは、古英語のandswaru「応答、質問に対する返答」という意味から来ています。これはPIE(印欧祖語)の語根*ant-「前面、額」(「前に、前面に」を意味する派生語を持つ)からのand-「反対」 + -swaru「肯定」、swerian「誓う」(swearを見てください)から成り立っています。提案された語源によると、「告訴に対する誓った声明」という元々の意味があるようです。問題の「解決策」という意味は1300年頃からあります。

https://www.etymonline.com/jp/word/answer

すなわち、我々がアンサーと聞いて想像する「答え」「正解」という意味は派生的なもので、
根本的には「応答、質問に対する返答」という意味を有しているようです。

では、歌詞中の「answer」は、誰の何に対する応答なのでしょうか。

この歌の中では、登場人物である私や人々は絶望的なつらい状況に置かれています。
そして、聖なる母メリーが来てくれて「let it be」という教えをくれるのでした。

よって、この曲の登場人物は苦しみから脱するために
常日頃から神に祈りを捧げていることが想像できます。

このことから、「answer」とは、
苦痛からの救済を訴える声に対する「神からの応答」である
と解釈することができるのではないでしょうか。

したがって、「answer」は答えが正解、解決策ではなく
「応答」「啓示」「救い」
と訳すのがいいのかなと思います。

和訳上の注意点3―「let it be」をどう訳すか

さて、ここまで単語や文法、文構造に着目して歴史的に有名な名曲「let it be」を訳してきました!
ただ、さすがにちょっとした違和感に気付かれた方も多いことかと思います。

そうです。
僕は「let it be」を訳さずに「let it be」のまま放置していました!

もちろん、英語が分からないからそうしているわけではありません。笑
タイトルにもなっているからこそ、
この「let it be」にこの曲の真骨頂が現れていると考えているからです。

形式上の「let it be」の訳

簡単に確認しておくと、「let」は「~させる」を意味する使役動詞の一つであり、
「let O C」という形で「OにCさせる」と表現できます。
特に「let」は「妨げずに放置する」「許可をする」という意味合いが強い単語です。

したがって、文法上は「let it be」を直訳すると
「あるがまま放置させておく」
となります。

転じて、多くの和訳では「ありのままでよい」「流れに身を任せなさい」となっています。

「let it be」訳の問題点

しかしながら、この訳には強い違和感を感じざるを得ません。

繰り返しになりますが、この歌の登場人物は皆、苦しみ絶望し、救いを求めているのです。
そうであるにも関わらず、そのままでいなさいなどと呼びかけるのは、どうも理解に苦しみます。

暗闇の先が全く見えずに苦しむ人たちに対して
「ありのままでいましょう」「すべてを受け入れましょう」と言ってしまうのは、
お金持ちが貧乏人に対して「お金なんか持ってても意味ないよ」と言ってしまうほどに
無責任で残酷だと感じます。
ましてや、それが聖母の教えだとは考えられません。

彼らはむしろ、ありのままでいることに対して絶望しているのではないでしょうか。

表面上の言語的意味を超えた本質的内容を「let it be」から抽出しない限り、
この曲の本質は見えてこないのではないか

僕はそのように感じたので、「let it be」を検討しないうちは訳さないでおこうと決めたのです。

坂口安吾著「堕落論」

では、「let it be」をどのように訳せばいいのでしょうか。

「let it be」の和訳やその意味について検索すると、
聖書や哲学者のウィトゲンシュタインと関連付けた宗教的目線
考察している方々がいらっしゃいました。
(それはそれでおもしろいので、ぜひ読んでみてください!)

僕は敢えて日本人の哲学思想との関係性を模索することで
日本人である我々が「let it be」を聞いた際に、より深い趣を感じれればいいなあと思います!

そこで、目を付けたのが坂口安吾さんの「堕落論」です。

そのため、まずは堕落論の概要を紹介させていただきます!

この「堕落論」についてはPodcastでもお話ししています!
興味がある方はPodcast配信もお楽しみください。

時代的背景

まずは、集英社文庫から出版された「堕落論」の坂口安吾 年譜を参考に、
坂口安吾さんが堕落論を執筆した時代を概観しましょう。

坂口安吾さんは1906年に新潟県で生まれました。
宗教に興味を持ったらしく、1926年20歳に時には東洋大学印度哲学科に入学し、
仏教研究を志したようです。
また1928年には、東洋大学に在籍したままアテネ・フランスというフランス語語学学校にも入学しました。
終戦の翌年、1946年4月に「堕落論」を新潮に、12月に「続堕落論」を文学季刊に発表しました。

ご存じの通り、1939年から1945年は第二次世界大戦の期間です。
そのため、彼の30代は戦争とともにあったことが伺えます。

したがって、仏教という宗教的興味関心やフランス語をきっかけとした西欧文化、
そして戦争という悲惨な体験が彼に堕落論の執筆させた背景である

と想像できるのではないでしょうか。

日本人の性質

では、坂口安吾さんの宗教的教養と戦争体験に裏打ちされた「堕落論」は
一体何を主張しているのでしょうか。

堕落論および続堕落論(以下、堕落論)では、
まず江戸時代から敗戦後に至るまでの政治状況を振り返り、
制度など見かけの状況が変わっても、時代を超えて通底している日本人の性質を指摘します。

例えば、終戦時の日本人の振る舞いに対して次のように述べています。

たえがたきを忍び、忍びがたきを忍んで、朕の命令に服してくれという。すると国民は泣いて、ほかならぬ陛下の命令だから、忍びがたいけれども忍んでまけよう、と言う。噓をつけ!噓をつけ!噓をつけ!
われら国民は戦争をやめたくて仕方がなかったのではないか。竹槍をしごいて戦車に立ちむかい、土人形のごとくにバタバタ死ぬのが厭でたまらなかったのではないか。戦争の終ることを最も説に欲していた。そのくせ、それが言えないのだ。そして大義名分といい、また、天皇の命令という。忍びがたきを忍ぶという。何というカラクリだろう。惨めともまたなさけない歴史的大欺瞞ではないか。しかも我らはその欺瞞を知らぬ。天皇の停戦命令がなければ、実際戦車に体当たりをし、厭々ながら勇壮に土人形となってバタバタ死んだのだ。最も天皇を冒涜する軍人が天皇を崇拝するがごとくに、我々国民はさのみ天皇を崇拝しないが、天皇を利用することには狎れており、その自らの狡猾さ、大義名分というずるい看板をさとらずに、我々はこの歴史的カラクリに憑かれ、そして、人間の、人性の、正しい姿を失ったのである。

堕落論, 坂口安吾(著),株式会社集英社, p.29

したがってその性質とは、僕Matephysi流に解釈すれば、
武士道や天皇制のような非人間的な美徳を礼賛しておきながら、
その内実はすべて自分自身の都合のためという極めて人間的な動機であり、
さらには、自己都合のために大義名分を利用していることすら忘れる自己欺瞞性

のことです。

天皇制などというと、少し現実離れした仰々しいお話のように思えますが、
例えば、会社に置き換えて考えてみるとどうでしょうか。

理由もない仕事に意義を全く見出せないにも関わらず、
上司の命令だからという理由ただそれだけで厭々業務をこなす人
を見る機会も多いことでしょう。

彼らは必ず会社や社会、仕事や上司のことを批判します。
しかしながら、そんな彼らも会社のシステムに乗り、上司への責任転嫁によって受動的に意義不明な業務を処理しており、
自己利益のための会社や上司の命令という大義名分を使っているにすぎません。
さらには、彼らはそのことすら忘れて、堂々と文句を言うのです。

この純然たる自己矛盾とその忘却こそ、
坂口安吾は時代を超えて日本人に通底する性質
だと指摘しているのではないでしょうか。

堕落の発見

彼の指摘は決して日本人そのものを全否定し、理想主義の境地へと追いやるものではありません。
彼は敗戦後の日常で横行する上述のような性質こそが本来の姿であると理解しています。

そして、第二次世界大戦後に日本人が理想からかけ離れていく過程で、堕落を発見したのでした。

彼は戦時中を振り返り、次のように回想しています。

あの偉大な破壊の下では、運命はあったが、堕落はなかった。無心であったが、充満していた。猛火をくぐって逃げのびた人たちは、燃えかけている家のそばに群がって寒さの煖をとっており、同じ火に必死に消火につとめている人々から一尺離れているだけで全然別の世界にいるのであった。偉大な破壊、その驚くべき愛情。偉大な運命、その驚くべき愛情。それに比べれば、敗戦の表情はただの堕落にすぎない。
だが、堕落ということの驚くべき平凡さや平凡な当然さに比べると、あのすさまじい偉大な破壊の愛情や運命に従順な人間たちの美しさも、泡沫のような虚しい幻影にすぎないという気持がする。

堕落論, 坂口安吾(著),株式会社集英社, p.16

今のご時世だとなかなか口に出すことが難しいのですが、
彼は戦争という破壊と殺りくに、興奮と愛情と人間の生の美徳を見出していました。
生死の二者択一を常に迫られる戦時中の生活には、恐らく世俗的な欲望など存在せず、
まさに動物としてありのまま生きていればよいというような絶対的な肯定感があったのでしょう。

彼にとって、大戦中は人類愛という大義名分のみで生きていける理想的な環境だったのです。

世俗的欲求を忘れて生存という理想のみにすべてを集中させることのできた戦時中の状況と、
敗戦後の日常生活の中でそのような理想を見失い没落していく状況とを比較することで、
彼は「堕落」を見出したのでした。

「堕落論」とは何か

上述のように坂口安吾は、
理想を妄信できた戦時中と敗戦後に理想から離れていく世の中の状況を比較することで、
人間の堕落を発見しました。
また、妄信していた理想そのものの大いなる自己欺瞞性にも気付いたのでした。

したがって、彼は堕落こそが人間の本来の姿であると確信します。
そして、彼は人間本来の姿勢を次のようなものだと述べ、「堕落論」が姿を現します。

人間の、また人性の正しい姿とは何ぞや。欲するところ素直に欲し、厭な物を厭だという、大義名分だの、不義は御法度だの、義理人情というニセの着物をぬぎさり、赤裸々な心になろう、この赤裸々な姿を突きとめ見つめることがまず人間の復活の第一の条件だ。そこから自分と、そして人性の、真実の誕生と、その歴史が始められる。
日本国民諸君、私は諸君に、日本人および日本自体の堕落を叫ぶ。日本および日本人は堕落しなければならぬと叫ぶ。

堕落論, 坂口安吾(著),株式会社集英社, p.30

『美徳や大義名分のために生きているのだという幻想から離れ、自らの欲望に素直に生きてみる。
そうすることで、これまで妄信していた理想の矛盾と欺瞞性に気が付くことができる。
我々日本人の本来の人生は、そこから始まるのだ。
したがってまずは堕落せよ。』

これが、坂口安吾の「堕落論」であると、僕は思います。

「堕落論」理解への注釈

さて、「堕落論」はその名前から想像される通り、
通説の理想を捨て去り自己の欲望のままに生きることを勧める
という側面があり、刺激的な主張でした。

しかしながら、この「堕落論」は
怠惰に時間を無駄にして生きていくことや、
全てを諦めて虚無的に生きていくこと、
あるいはあらゆる非倫理的行為の肯定を意味しません。

彼が「堕落論」に込めた前向きな思いは、他の著作を読むと分かります。

例えば、彼は太宰治の自殺について私見を述べた「不良少年とキリスト」というエッセイで、
生について次のように語っています。

生きることだけが、大事である、ということ。たったこれだけのことが、わかっていない。本当は、分かるとか、分からんという問題じゃない。生きるか、死ぬか、二つしか、ありゃせぬ。おまけに、死ぬ方は、ただなくなるだけで、何もないだけのことじゃないか。生きてみせ、戦いぬいてみなければならぬ。いつでも、死ねる。そんな、つまらんことをやるな。いつでもできることなんか、やるもんじゃないよ。
死ぬ時は、ただ無に帰すのみであるという、このツツマシイ人間のまことの義務に忠実でなければならぬ。私は、これを、人間の義務とみるのである。生きているだけが、人間で、あとは、ただ白骨、否、無である。そして、ただ、生きることのみを知ることによって、正義、真実が、生れる。生と死を論ずる宗教だの哲学などに、正義も、真理もありはせぬ。あれは、オモチャだ。
しかし、生きていると、疲れるね。かく言う私も、時に、無に帰そうと思う時が、あるんですよ。戦いぬく、言うはやすく、疲れるね。しかし、度胸は、きめている。是が非でも、生きる時間を、生きぬくよ。そして、戦うよ。決して、負けぬ。負けぬとは、戦う、ということです。それ以外に、勝負など、ありゃせぬ。戦っていれば、負けないのです。決して、勝てないのです。人間は、決して、勝ちません。ただ、負けないのだ。
勝とうなんて、思っちゃ、いけない。勝てるはずが、ないじゃないか。誰に、何者に、勝つつもりなんだ。
時間というものを、無限とみては、いけないのである。そんな大ゲサな、子供の夢みたいなことを、本気に考えてはいけない。時間というものは、自分か生れてから、死ぬまでの間です。

堕落論, 坂口安吾(著),株式会社集英社, p.124-125

彼は、生きるということを、常に戦い続けるということを人間の義務だと考えています。

すなわち、「堕落論」は
人生を浪費したり、人生そのものを投げ出したりする
ということを肯定するなどということは全く意図していない

のです。

また、彼には堕落に対して、次のような確信を持っています。

我々のなしうることは、ただ、少しずつ良くなれということで、人間の堕落の限界も、じつは案外、その程度でしかあり得ない。人は無限に堕ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれていない。何物かカラクリにたよって落下をくいとめずにはいられなくなるであろう。そのカラクリをつくり、そのカラクリをくずし、そして人間はすすむ。堕落は制度の母胎であり、そのせつない人間の実相を我々はまず最もきびしく見つめることが必要なだけだ。

堕落論, 坂口安吾(著),株式会社集英社, p.36

彼は、人間の精神的脆弱性故に、
一般通念上の善から離れて自己の欲望に溺れていく堕落という過程にも必ず限界が来る
と確信しているのです。そして、その限界に直面した人間は、
必ず理想的で信じるに値するような大義名分を構築せずにはいられない
と確信しているのです。

そして、一度構築した虚構を破壊し、再度自らの手で虚構を築き上げることによって、
我々は少しずつ良くなり、それが人間の進歩に必要なのだと述べています。

6. 「堕落論」まとめ

「堕落論」はその名の通り、
理想を捨て、ありのままに俗悪に飲まれていく過程を積極的に取り入れるように主張します。

しかしながら、それは決して人生を粗末に扱うことを肯定したり、
あらゆる状態を無条件に全肯定して、耐え忍ぶことを美徳としたり、
あるいは、ありのままでいることを礼賛し、自分らしさを誇張することを意図してはいません。

むしろ、『あらゆる美徳や大義名分から積極的に距離を取り、
自分自身の判断に基づいてあらゆる虚構を否定し、否定し、
否定し続けた先で、否応なしに頼らざるを得ない物事を見出し、作り上げていこう』

という前向きな姿勢こそが、堕落論の本質ではないかと思います。

「let it be」どう訳せばよいか

さて、長くなりましたが、
ようやく本題の「let it be」をどう訳せばいいのかという問題に戻ってきました。

直訳の問題点

ここまでお読みいただいた方はお分かりかと思いますが、
直訳すれば「ありのままでよい」「流れに身を任せましょう」となりますが、
本当にそれでいいのでしょうか。

ただありのままの態度を勧めるだけでは、
人生に絶望し自ら命を絶とうとするものを救うことは出来ません。
悩み苦しむ悲痛の声を強制的に相対化し、
既存の格差構造を解消しようとしない態度を生むことにもなりかねません。

それは、やはり、聖なる母メリーの言葉としては不適切なのです。

そこで、我々が取り入れるべきは「堕落論」の考え方に他ならないのです。

「let it be」を「堕落せよ」と訳した場合

「let it be」を「堕落せよ」と訳した場合、この曲のストーリーは次のようになると考えられます。

僕が災難に見舞われて絶望し、神に救いを求めずにはいられなかったとき、
聖なる母メリーが僕のところにきてこんな教えを話してくれたんだ、「堕落せよ」と。
そして、暗闇の中で過ごし出口を探していたときも、
聖なる母メリーは僕の真ん前に立っていてこんな教えを話してくれたんだ、「堕落せよ」と。

「堕落せよ」植え付けられた一般通念上の理想から離れ、自らの意思に従ってごらん。
「堕落せよ」美徳や大義名分の欺瞞に気付き、ありのままの欲望に従ってごらん。
「堕落せよ」あらゆる理念を否定し、否定し、限界まで落ち込んでごらん。
「堕落せよ」自らの限界に到達したら、自分にとって信じれるものを一から構築してごらん。
それが「堕落せよ」という先人の知恵なのです。一緒に唱えましょう。

世界中にいる心がくじけた人たちが、再び助け合い手を取り会おうとするならば、
そのときには神の啓示があるでしょう。「堕落せよ」と。
結局人々はバラバラになるかもしれないけれど、依然として彼らが
神の啓示を理解するチャンスは残されています。「堕落せよ」なのです。

「堕落せよ」植え付けられた一般通念上の理想から離れ、自らの意思に従ってごらん。
「堕落せよ」美徳や大義名分の欺瞞に気付き、ありのままの欲望に従ってごらん。
「堕落せよ」あらゆる理念を否定し、否定し、限界まで落ち込んでごらん。
「堕落せよ」自らの限界に到達したら、そこから自分にとって信じれるものを一から構築してごらん。
「堕落せよ」こそが神の啓示なのです。

「堕落せよ」は、闇夜が曇っているときでも
そこには私を照らす光が依然としてあることを気付かせてくれるのです。
明日まで照らすような光があるのです。それを信じて、「堕落せよ」
ようやく僕は苦悩の闇から抜け出して、音楽の音色で目を覚ました。
そういえば、聖なる母メリーが僕のところにきてこんな教えを話してくれたんだ、「堕落せよ」と。

終わりに

最後までご覧いただきありがとうございました。

今日は、歴史的に有名なThe Beatlesの楽曲「let it be」を取り上げ、
その歌詞を深堀りしてみました!

歌詞は平易な単語と文法からなっていますが、内容は深く、
辞書的な言葉の変換にとらわれると、誤訳してしまう場合が多いので注意
が必要です。

また、楽曲のタイトルでもあり、曲中でも何度も歌われる
「let it be」というフレーズが持つ意味についても考察しました。

ただ単に「ありのままで良い」という無条件な肯定は、
優しいようでいて無関心、無責任な態度にほかなりません。

そこで、そのような安直な訳に頼るのを避け、
歌詞の意味を考察する際には坂口安吾の「堕落論」を参照しました。

堕落という言葉の響きから想像できるように、一見すると「堕落論」の主張も同様に
ありのままの姿で、肩肘張らずに生きていくことを推奨するような思想である
と考えられています。

しかしながら、坂口安吾の著作を読むと、「堕落論」には
人生に対する絶望や虚無感などのニヒリズムとの共存を促すというよりはむしろ、
それらを跳ね除けて力強く生きていこうとする息吹が流れていることが確認されました!

以上のことを踏まえて、「let it be」とはまさに「堕落せよ」という意味であり、
堕落によって社会通念の自己欺瞞性を暴き、徹底した批判精神の極致に自分自身の限界を自覚し、
限界を出発点に自らの人生を一から構築していこうとする姿勢である

と解釈しました。

一度限界まで落ち込み、そこから這い上がる姿勢こそが本来の人間の姿勢であり、
その人間本来の姿勢を体得したときのみ、「ありのままでよい」となるのではないでしょうか。

また、このブログ記事の内容は僕のPodcastでもお話ししました!
興味がある方は、ぜひPodcast配信の方もお楽しみください。

ご覧いただきありがとうございました!
是非、次回の投稿もお楽しみに!

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