皆さん、こんにちは。
Matephysiです。
研究室にいると、年に数回ほど、
一流企業にお勤めのOB・OGが研究室を訪問し
リクルートを兼ねてちょっとした企業紹介や講義をしてくださる機会に遭遇します。
博士課程に在籍中の僕ですが、
企業での研究活動など、大学での生活との違いが知れて割と楽しいです。
自分ももしかするとこういうところで研究できるのかなあと淡い期待を持ちながら話を聞きますが、
毎回唯一違和感を感じる部分があります。
それが、
「弊社はワークライフバランスに対する意識が高く、
日々社員は定時で帰宅し、
また、有給休暇や育休の取得率がとても高いです。」
という昨今お決まりの文言です。
まさにタイトルにもあるワークライフバランスとやらを前面に押し出し、
その企業の健全さをアピールしてくるのです。
一見とても良い主張に聞こえます。
むしろ、耳触りが良いこそ、大学生大学院生を集めるために
各企業がこぞって主張するのかもしれません。
しかし、僕はこのワークライフバランスの推進こそがチームをダメにし、
社会を崩壊させ、日本を没落させると思うのです。
ワークライフバランスとは
そもそもワークライフバランスとは何なんでしょうか。
内閣府のHPには政府の取り組みとして、「仕事と生活の調和(ワーク・ライフ・バランス)憲章」というものが公開されています。
誰もがやりがいや充実感を感じながら働き、仕事上の責任を果たす一方で、子育て・介護の時間や、家庭、地域、自己啓発等にかかる個人の時間を持てる健康で豊かな生活ができるよう、今こそ、社会全体で仕事と生活の双方の調和の実現を希求していかなければならない。
仕事と生活の調和と経済成長は車の両輪であり、若者が経済的に自立し、性や年齢などにかかわらず誰もが意欲と能力を発揮して労働市場に参加することは、我が国の活力と成長力を高め、ひいては、少子化の流れを変え、持続可能な社会の実現に資することとなる。
仕事と生活の調和(ワーク・ライフ・バランス)憲章
つまりここでいうワークライフバランスとは、
仕事と子育てを代表とする家族生活との両立
であると読み取れます。
また、現在、これは様々な観点から実現が難しいため、
官民一体となって対策するべき課題であるという認識が
内閣府のHPには書かれています。
(詳細は各自チェックしてください→内閣府のHP)
また、「仕事と生活の調和推進のための行動指針」においては、
ワークライフバランスの取れた社会に必要とされる条件として、
1) 就労による経済的自立が可能な社会
2) 健康で豊かな生活のための時間が確保できる社会
3) 多様な働き方・生き方が選択できる社会
仕事と生活の調和推進のための行動指針
を挙げています。
すなわち、ワークライフバランスが実現する社会は
お金も時間も健康状態も十分であり、
さらに自らの行動も社会に受け入れられる社会
であるということです。
(こちらも、詳細は各自チェックしてください→内閣府のHP)
理念としては素晴らしいと思います。
しかし、僕が懸念しているのはこの理念を実現する過程です。
厚生労働省は「仕事と生活の調和」において次のような施策を紹介しています。
労働時間等の設定の改善
労働時間等設定改善法
労働時間等見直しガイドライン(労働時間等設定改善指針)
働き方・休み方改善コンサルタント
特に配慮を必要とする労働者に対する休暇制度の普及事業
情報通信技術を利用した事業場外勤務の適切な導入及び実施のためのガイドライン
テレワーク普及促進関連事業
仕事と生活の調和促進プロジェクト
仕事と生活の調和 施策紹介
つまり、ワークライフバランスを実現するために
労働時間を減らし、休みを増やすための各種制度の充実
を目指しているということです。
以上をまとめると、ワークライフバランスとは、
労働時間を減らし、休みを増やすことで
仕事と家庭生活の両立を目指し
最終的には、少子化等社会問題を改善し、
多様性があり国際的な競争力の高い社会を形成するための取り組み
であると言えると思います。
実現過程において
では、このような目的を達成するためには何が行われているのでしょうか。
まず、労働時間を減らし、休みを増加させるために、
各企業は定時退社・ノー残業を積極的に促し、
社員を帰宅させるようです。
よくチームのリーダー(課長や部長クラス)の方々が、
「上の人が最後まで残り続けると下の人が帰りにくいから
僕・私は積極的に帰り、帰らせるようにしています。」
と仰ります。
僕の研究室でも、数年前にコアタイムが設けられ、
先生方は積極的に、そして意図的に帰っていきます。
その一方、社会の発展・複雑化に伴って
仕事の絶対量は変わらない(あるいは増加している)ので、
勤務時間を短くするためには生産性を高めなければなりません。
そのため、各個人は今以上の能力を獲得しようと勉強します。
それを後押しするように、各企業はリスキリングや自己啓発を推奨し、
そのための補助金を出す企業もあるようです。
さらには、雇用形態にも変化が起きています。
下図は内閣府が公表している雇用形態の変化を示すグラフです。
非正規雇用率が年々増加しています。
また、厚生労働省は「令和元年就業形態の多様化に関する総合実態調査の概況」において
企業が非正規労働者を採用する理由と個人が非正規労働者になる理由を公表しています。
この調査に基づくと、
各企業が賃金コストの削減のために正社員数を削減し、
その一方で、必要な人手の埋め合わせのために非正規労働者を必要に応じて雇う必要がある
各個人は自分の都合に合わせてフレキシブルに働きたい
という需要と供給の一致が見え隠れしています。
このように、ワークライフバランスを追求するために、
会社や所属組織にいる時間を減らし、
各個人に能力を高める必要性を迫り、
会社や組織の枠を超えてフレキシブルに働くようになっている
と考えられます。
何が問題か
上述の通り、今や会社では(大学ですら)残業は許されず、
社会は不必要な労働や外出は慎むようにという雰囲気で満たされています。
(コロナ渦がそれをさらに加速させたように感じます。)
組織にとって意味のないことを否定されれば、
組織における自分という存在は、意味のあることでなければならなくなります。
世の中は必ずしも意味のある行為、特に組織に対して恩恵を与える行為のみで満たされているわけではありません。
振り返ってみれば、一日のうちにどれだけ意味のある行為ができているでしょうか。
考えるだけでぞっとしてしまいます。
意味の有無をすべて含んだ個人に対してその一方のみを要求されている状態は、
いわば自分自身の部分的な拒絶であると感じざるを得ません。
組織に属していながら、所属による包摂をいつまでも感じられず、
居心地の悪さを常に感じて生活することになります。
また、そのような不快感が解消される見込みは全くないようです。
結果として、人々の所属組織に対する帰属意識は軽薄になります。
帰属意識の低い人々は、組織や社会全体に対する俯瞰的な視座を持つことをやめ、
極めてシンプルに自己の欲求のみを追求するようになってしまうのではないでしょうか。
それぞれの実存に根差した個別の要求に個々に対応していては日が暮れてしまいます。
また、そのようにすれば全体的なまとまりは失われ、組織として成り立たなくなるでしょう。
したがって、組織側は全員に対しての説明責任を果たすべく、
極めて合理的な共通のルールを設け、
個々人の状況に依存しない判断を下すようになりました。
まともな人間であれば、当然決められたルールを守ります。
しかし、ルールというものは必ずしも全員に適用できるものではなく、
一般にすべての人の平均的なふるまいを基準に記述されることが多いのではないでしょうか。
そうだとすれば、もちろん、その平均に近しい人もいれば遠い人も出てくるでしょう。
平均的なルールという共通の座標軸を設けたことによって、
人々の比較が容易になり、優劣が目につくようになりました。
例えば、遅れを取っている人はその進捗の遅さを責められ改善が要求され、
自分勝手に大雑把に先を進む人へは、足並みをそろえ丁寧に作業するように諭される。
そして、そのような光景を目にすれば、いつかは自分だと警戒感を強め、萎縮せざるを得ません。
その結果、人々は自らを徹底的に押し殺し、ルールに従順な「組織人」として振舞います。
そんな彼らは合理的であり、極めて画一的で予測可能な存在でしょう。
では、全員が全員、彼ら自身の予想の範疇でしか振舞うことをしない組織の中で誰が成長できるのでしょうか。
誰もがパッケージ化され差がないという状況の中で、誰を目標にすればよいのでしょうか。
さらには、誰が新たな価値観に気付くことができ、また、既存の価値観を疑うことができるのでしょうか。
ルールの徹底は、むしろ、人間が持つ可能性を矮小化し、
組織を形骸的で空虚なものにしてしまうでしょう。
そのような組織に属したいと思う人間はどれほどいるのでしょうか。
まさにワークライフバランスの推進こそが、ルール作りを加速させ、
窮屈で非人間的な社会が作られる原因の一つとなっていると僕は思います。
さて、もう少し長くなりそうなので、今日はここらでいったん区切ります。
次回は、ワークライフバランス推進に潜む自己の疎外についてをテーマに
現代社会に対する疑問点を言語化していきたいと思います。
ご覧いただきありがとうございました!
是非、次回の投稿もお楽しみに!