皆さん、こんにちは。Matephysiです。
いかがお過ごしでしょうか。
最近、YouTubeのおすすめに出てきて
芸人チョコレートプラネットさんのYouTubeチャンネルの動画にはまっています。
失礼を覚悟でいえば、
理屈を抜きにして、二人の雰囲気に笑いが思わずこみ上げてくる感覚があり、
疲れて無気力になったときなどに純粋に楽しめます!笑
そして、今回、彼らのコンテンツの中で取り上げたいのが、
「財津チャンネル」
というコンテンツです。
目次
財津チャンネル(チョコプラ)
財津チャンネルでは、
チョコプラ長田さん演じるビジネスコンディショナーの財津啓司さんが
ゲスト(チョコプラ松尾さん)を招いて
ビジネスや政治など時事的なそれっぽい話をするコントです。
恐らく台本もない中で、お互いがそれっぽい単語をそれらしくぶつけ合うコントでもあり、
意表を突く単語で笑いを誘う大喜利っぽい要素もあります。
百聞は一見に如かず!
例えば、次のような動画をご覧ください!
この回のゲストはチョコプラ松尾さん演じるモチベーションアッパーの佐藤ラムトさん
様々なカタカナ言葉を駆使して二人が共有しているであろう抽象的な話をしています。笑
コントとして、お笑いとして、見ていて単純に楽しいのですが、
この動画を見終えてしばらくすると、
若干背筋が凍るような思いをしました。
皮肉としてのお笑い
この動画がおもしろおかしいのはなぜでしょうか。
それは、やはり皮肉が効いているからでしょう。
最近ではYouTubeでも
実業で成功した人や著名人、あるいは知る人ぞ知る知識人などの
知的で高度な対談番組を無料で見ることができるのが当たり前になってきました。
時には学者同士の学術対談が大学の公式チャンネルから発信されている場合もあります。
学びの機会が増えるという意味では、非常にありがたい限りです。
僕は特に、思想や哲学、発達障害や精神医学に関する本をよく読むので、
購買行動に紐づいた関連動画もおすすめに出てきますし、
興味を持って見ています。
では、そのような動画は全く興味がない人たちにはどのように映るのでしょうか。
実は、それを疑似体験できるのがチョコプラの財津チャンネルだと思います。
自分はよく知らないが、成功していそうな人が堂々と登場し、
専門用語、業界用語でテーマに関する怒涛のトークを展開する。
そして、その周辺人は彼、彼女の言うことを全肯定する。
一方、動画という形式や時間の制約により、
多くの場合は十分な説明がなく、
理解できない人を置いていくような速さで動画は進んでいく。
ともすればそのような対談は、第三者の視聴者にとって
知識がある人のマウンティングとなり、
成功体験を基にした自己満足トークとなり得ます。
日々無自覚に曝される情報が持つある種の抑圧的構造から受けるストレスを逆手にとって、
痒い所に手が届く感覚を絶妙なセンスで笑いにつなげたのが、
チョコプラの財津チャンネルなのではないでしょうか。
知的な対話はどう聞こえるのか
先に背筋が凍る思いをすると言いましたが、
それは、正直に言えば、
僕も油断すると専門用語や哲学用語でまくしたてるような話し方をしてしまうからです。
特に、哲学の分野では、専門用語が含有する意味はかなり広く、
一言で厳密に定義できるものではありません。
時には、哲学者は数年をかけて仕上げた数百ページの本一冊をかけて
たった一つの用語や概念について説明しています。
そのような場合、ある用語を使用する前に冗長な説明をするのは気が引けます。
いっそのこと、知っている前提で話した方が楽です。
また、特定の分野にどっぷり浸かっていると、
当たり前すぎて説明が必要だという気持ちにもならない場合もあります。
世間話のような時間的な制限がある中で行う会話において、
相手を置いてけぼりにして話してしまうと
相手をまさに財津チャンネルを見ているときのような気分にさせてしまうのでしょう。
この事実は、僕にとってはとても衝撃的でショッキングです。
なぜなら、哲学的な話題をする場合はもれなく、
相手や組織や社会など、公共のためを思って話しているからです。
お互いに相互の利益やより良い状況のために交流しているにも関わらず、
意図せず溝を作り、深めてしまうのです。
理性の悪循環
インターネットやAI技術が発達した現代社会において、
理性の使い方を見直し、検討し、そして教育する場面に来ていると思います。
現在我々が様々な場面で体験するように、
我々が理性的になるのは、人の間違いを指摘し、物事を批判するときではないでしょうか。
その際、単なる感情的な人格攻撃になってしまってはいけませんし、
不要な争いを避けつつ、相互に善良な状態へと移行していく必要があります。
そのためには、自分の主張が客観的で、論理的に正しい必要があるのです。
したがって、我々は理性を堅実な自分自身の「お守り」として使用しています。
ただし、多くの人が高度な知識にアクセスできるようになり、
各人が有する守備力は格段に向上し、批判や議論は決着がつきません。
あるいは、相互理解のための交流がより分断を深める結果になってしまうこともあります。
お互いにより良い状態になるようにと勇気を出して指摘したにも関わらず、
自分自身を保護する論理と対等かそれを以上の防御力を持った論理で抵抗される。
そのような経験を繰り返せば、
人と人とは分かり合えないんだと積極的な交流に嫌気がさし、
人々の孤立と分断が加速されていくでしょう。
あるいは、理屈を超えた権威主義的な力関係を背景とした高圧的な態度をもって
弱者を従えるしかなくなります。
現在の日本はそのような悪循環に陥っているように感じます。
例えば、論破王(?)ひろゆきさんの代名詞として有名な言葉があります。
「それってあなたの感想ですよね。」
最近では小学生でも使うようで、ある意味では微笑ましいですが、
この言葉が持つ意味を真剣に考えてみると、
我々は看過できない由々しき事態の真っただ中にいるとハッとさせられます。
理性の利用条件
では、理性はどのように用いるべきなのでしょうか。
あくまでMatephysi流の仮説ですが、次のような前提条件の下で
初めて理性は力を発揮するのではないでしょうか。
1.批判対象への尊重
理性は常に後付け的に作用します。
あり得もしない空虚な対象に対していくら論理を組み立てたとしても
それは机上の空論であって、有益ではありません。
最近では理論に基づき未来を予想することを期待する風潮も強いですが、
「事実は小説よりも奇なり」
というように、現実世界は我々が考えるよりもっと複雑で予想不可能です。
結局、理性ができるのは
生じた出来事を我々が認知できる要素を用いて語ることだけ
です。
何か物事が起こる。
だから、我々は思考を凝らして批判ができるのです。
どれだけ起こった現象が稚拙で非常識、非論理的であったとしても
それには理性の力を引き起こすという重要な作用を持っています。
そのような作用の結果として、我々は他者に対する理解を深め、
より発展しより良く快適な生活を送れる可能性を高めることができます。
したがって、馬鹿げた出来事を絶対的に正しい論理をもって批判するとしても、
我々は批判対象に対する尊重の意識を失ってはいけません。
十分な尊重への確信があって初めて、理性が役立つ段階に入るのではないでしょうか。
2.「守り」ではなく、「攻め」
先に述べたように、僕にとって理性は「守り」の姿勢です。
どれだけ論理的で賢い人であっても、あるいは賢ければ賢いほど、
自己壊滅的な指摘はしないでしょう。
つまり、理性は、現状に対する批判や変容の要求という、
リスクを伴う行為をする上で必要な自己防衛の意識なのです。
繰り返しになりますが、
多くの人が多様な情報を簡単に入手することができ、
あらゆる物事が即座に相対化される世の中では、
理性に基づく指摘ややり取りは空中戦となりかねません。
自分自身を守る理性の使い方には限界が来ているのです。
であるならば、我々は理性を「攻め」のために使うしかありません。
ここで、注意してほしいのですが、
「攻め」
であって、
「責め」
ではありません。
「責め」は「守り」の姿勢の一つです。
自分自身の立場を守りたい一心で、どこかの弱者を肉体的・精神的に攻撃するわけですから。
僕の言う「攻め」とは、つまり、
相手を積極的に肯定するための理性の使い方
のことです。
人間は常に不完全です。
行為にも矛盾がたくさんあり、誤りを指摘しようと思えばいくらでも指摘できるでしょう。
しかし、そのような未熟さや不完全性を受け入れ、
むしろ、今ここにいる状態を全力で肯定するために頭を使うのです。
時には、どれだけ頑張っても今の状態を肯定できない場合もあるでしょう。
決して誰にでもできることではありません。
だからこそ、理性の価値が再び輝く可能性があるのです。
ご都合主義的になれと言っているのではありません。
当然その態度は、自分あるいは自分が所属する組織や利益集団の保身と同義です。
全く関係のない他者や、直接の利益関係からは距離のある対象を
無理も承知で、自己矛盾を理解しながらもなんとか肯定すること。
理性の利用条件として、そのような姿勢を規定しておくべきではないでしょうか。
3.「あなた」から「私」へ
理性的に話すとき、そこには必ず
「あなた」はこうすべきだ
という意図が隠されています。
このような自己中心的で攻撃的な主張を言えば反感を買い、反発される可能性もあります。
そのため、我々は何とかそれっぽい論理を構築して
自分自身の意見ではなく、他の人もそう思っている
という主張に置き換えて伝えます。
すなわち、理性的であるとき我々は、
客観的事柄と「あなた」を比較して、「あなた」の特異性を指摘
しています。
そこには、本当は物質としても概念としても存在しているはずの「私」はいません。
だとすると、相手があなたと話す意味はどこにあるのでしょうか。
正直に言えば、客観的事実を端的に述べるあなたの存在はAIに置き換え可能で
置き換えた方がよさそうです。
よって、我々は発想の転換が必要なのではないでしょうか。
すなわち、我々は
「私」を殺して客観的事実と「あなた」を比較するときではなく、
「私」と客観的事実との比較を「あなた」に伝えるときに
理性的になるべきなのではないでしょうか。
したがって、理性的な会話で述べられるのは一種のケーススタディで、
極めて「私」に特異的な主観的な内容です。
そして、それを自分とは異なる外部のものと受け取った相手は、
その事実を客観的なものとして認識し、
改めて自分自身である「あなた」と比較するのです。
客観的であることが求められ、自分語りが敬遠される現代社会の中で、
いかに主語を「私」にして語るかは難しい問題です。
そこに、理性を駆使する余地が残されていると思います。
そして何より、そのような姿勢が相手にも理性を駆使する余地を残すのです。
どこの誰が信じているのか分からないような客観性の陰に隠れて他者に自己中心的な要求するのではなく、
むしろ自分自身を積極的にそのような権威と対峙させ、
自分自身の異質性を開示する姿勢もまた、
理性を利用するための条件になるのではないでしょうか。
まとめ
長くなりましたが、
今回はチョコプラの財津チャンネルというコントを見て笑った後に、
専門用語や客観性の陰に隠れて胡坐をかいている姿勢を反省しました。
そこから、果たして知的な態度、あるいは理性とはどうあるべきなのかについて考察してみました。
チョコプラさんの動画はどれもめちゃくちゃ面白くて好きですが、
意味が分かると怖い話のように、笑いの源泉である皮肉の対象が何かが分かると
ハッとさせられ、自分自身の態度を見直すきっかけにもなります。
お笑いも奥深いですね。
ご覧いただきありがとうございました!
是非、次回の投稿もお楽しみに!