皆さん、こんにちは。
Matephysiです。
皆さんはいかがお過ごしでしょうか。
実は僕はここ最近、あまり良いとは言えない日々を過ごしていました。
包み隠さず申し上げるならば、精神科を受診し、
発達障害(自閉症スペクトラム, ASD)の傾向があり、
「抑うつ状態であるので休息が必要である」
と診断されました。
はあ。なんてこった。。。
あまりコンテンツとしては適切ではないかと思いますが、
今日は少しばかり自分語りをしたいと思います。
興味があればご覧ください。
ちなみに、しばらく更新せずに放置していたこのブログなのですが、
不思議なことに、日に日に見ていただける方が増えています。
本当に、ありがとうございます!!
世の中、よく分かりませんね。
くよくよ悩まずに、行動するしかないのかもしれません。
目次
悩みの原因
悩みの原因は、「社会生活を送ることへの不安」です。
多くの人にとっては何を言っているんだ、という感じだと思います。
僕もこの機会に様々な人に相談しましたが、あまり受け入れてもらえませんでした。
(それもまたストレスの原因に。。。笑)
私たちは「社会」という、分かるようで分からない集団に属し、
互いに支え合い、影響し合いながら生活しています。
その一方で、自分の人生は自分のものであるから、
自分の力で未来を切り開いていくように
と言われて育ちます。
また、他者との交流からだけでなく、最近ではインターネットで見聞きするような
外部情報からの影響を強く自覚しながら生きています。
その一方で、自分の行動が他者に及ぼす影響はあまり自覚できずに生きています。
傍若無人、自分勝手にふるまう人を見て嫌な気分になりながら、
その一方で、自分自身も自分の都合で行動を決めます。
多くの人が、後輩の失礼な行動に憤慨しながら
その一方で、自分自身の至らなさ故に教員や先輩から言われる文句に対して愚痴をこぼします。
このような日常で遭遇する二律背反と
それに直面した時の自分の振る舞いの一貫性のなさに
僕の心はどんどん蝕まれて行きました。
そして、いつの間にか「普通」の生き方を見失い、
社会で生きていく自信を失っていきました。
科学と哲学を
最近の若者の多くの悩みが、
「やりたいことが見つからない」
だとよく耳にします。
ただ、これは何か間違った言語表現ではないかと感じざるを得ません。
正確には、
「やりたいことが経済活動とつながらない」
なのではないでしょうか。
少なくとも僕はこちら側です。
僕がやりたいのは、「科学と哲学」です。
偉そうに言えば、常に思索し、文字に起こし発信していたいです。
ここで、僕にとって両者の定義は、
大澤真幸先生の「資本主義の<その先>へ」を参考にすれば次のようなものです。
科学とは、脱主体化され一般化された経験(実験)を基に世界を語ることである。
哲学とは、主体的で一般化され得ない経験を基に世界を語ることである。
(なお、大澤先生の本では科学と哲学ではなく、科学と小説が比較されています。)
分かりやすく言えば、
「みんな同じことをすれば同じことが分かるよ!」
というのが科学的態度で、
「これは自分の感性を通してみた世界だからおかしいかもしれないけど、
僕にとっての世界を最大限客観視した結果がこれだよ!」
というのが哲学的態度です。
この両者を駆使して、
世界を記述し、真理(の仮説)を探究したい
というのが僕のやりたいことです。
平たく言えば、理想に一番近しい職業は研究者かなと思います。
(長らく僕もそう思っていました。)
しかし現実はそう甘くはない。。。
人間関係という最強の難敵
偉そうに夢を語りましたが、
常にぶち当たる壁が、人間関係です。
会社であろうと大学であろうと研究所であろうと、
組織に属する限り付きまとうのが人間関係ですよね。
自分のやりたいことに全力で取り組め!
と言われながら、
自分のやりたいことばっかりやって何様のつもりだ!
と怒られる。
さらに、人間関係は理解や説明に対して常に先行しています。
人間関係においては、合理的な根拠が無効化される場合があるのです!
はあ。人間関係はとても難しい。
そして結局、現実的には
自分のやりたいことなんてできないのでは
とすら思ってしまいます。
かと言って、周りの協力なしには何事もなし得ないことも確かな気もします。
人間関係に消耗して、エネルギーが枯渇した状態が
僕にとっての抑うつ状態でした。
博士課程に適した学生とは
ここまで聞くと、博士課程はなんて残酷な場所なんだと思われるかもしれません。
しかし、
僕は博士課程に進学したことを後悔していませんし、
学生の皆さんには博士課程に進学することを純粋におすすめします。
ただ、あまり期待はしない方がいいということをここでは触れておきます。
もしかしたら、博士課程が何やら高尚なものだと思い躊躇している方には朗報かもしれません。
というのも、博士課程は言わば研究者の養成課程です。
また、研究者とは、自分の興味関心が明確にあり、
それに邁進する人だという印象があると思います。
逆に言えば、この印象は
「自分には明確な興味関心がないからついていけないかも」
と思わせてしまうかもしれません。
確かに研究者はそのような存在なのかもしれませんし、
大学教員もそのような人材の育成を目指しているのかもしれません。
しかし、僕の周りの博士課程の学生の印象は全く異なります。
博士課程の学生はとても真面目で、
「如何に言われたことを忠実に実行し、評価を挙げることができるか」
に特化した“しごでき”の超エリート集団です。
先生がやれということはやる!
先生ができないということはできない!やらない!
5分考えて分からないことは一生分からないので、人に聞くか無視する!
とにかく効率重視で、できるだけ早く修了する!
正しい正しくない、役立つ役立たないは二の次!
「なぜ」ではなく、やるかやらないか!
そんな人たちです。
正直、僕のような凡人には理解できませんが、
受験勉強や部活動などで競争させられた方が燃える
という方々にとっては過ごしやすいのではと思います。
実は、明確な興味関心などなくて良いのです。
むしろ、そのようなものがあると無駄な衝突が発生し、ない方がスムーズに進みます。
教授は自分のやりたいことをやるようにとおっしゃいますが、
その下の先生や先輩の指示を聞く限り、
先生の希望がまさに自分のやりたいであるかのように振舞えることの方が重要です。
最高学府の博士課程だと言えど、小学校から構造は何ら変わりません。
科学・哲学仲間が欲しい
理系畑にいるからかも知れませんが、人文系の話は全く通じません。
また、むしろ毛嫌いされ嫌厭されます。
日本社会や社会における科学の位置付け、大学の在り方、
本質解明に至る思考プロセスや自分が無意識に適応している認識機構、
ひいては善き生とは何か
等の問いは答えのないもので無意味なものだとみなされています。
近代科学は脱主体化・一般化のプロセスであり、
結果として個々人の在り方はさほど問題にならないとはいえ、
プレイヤーとして個人は必ず存在しています。
であるならば、研究に従事する個人の在り方を問うこともまた重要であると思うのですが、
なかなか誰も相手をしてくれません。
あるのは技術や手段の話ばかり。
少し残念で寂しい気持ちになります。
終わりに
ここまでご覧いただきありがとうございます。
今は研究を前に進めたいという気持ちで分野を問わず勉強しています。
他者との交流や集団生活は未だに苦手で、時々外出すると
一日過ごして二日寝込む
みたいな怪奇現象が起きますが。。。笑
実は、有難いことに、去年から
人文系の先生とも定期的にお話しする機会をいただいております。
(これがまたおもしろく楽しい!)
彼もまた、
「最近の学生はちょっと不思議で、
地域社会をどうやって活性化すればいいか考えてって聞くと
役立つアプリを開発すればいいとか真剣に言ってくるんだよね」
と不思議がっていました。
今の世の中では、
人間に本来根付いた感覚にアプローチすることで居場所を作るよりも、
技術など絶対的なものでそれらの感覚を麻痺させて居場所を作る方が
主流なのかもしれません。
技術開発の根幹にいることを期待される理系博士課程の学生でありながら、
技術への信仰に対してはどこか違和感を覚えてしまう。。。
自分でも自分のことがよく分かりませんね。笑
最後に、最近見た対談番組で興味深いものがあったので共有します。
哲学者の梶谷真司先生と鞍田崇先生の対談です。
お互い表面上はサバサバしたように思えるのですが、
内容はとても人間味があって楽しめました。
そして何より、哲学者の先生方も
葛藤と工夫を繰り返しながら生活しているという姿勢
に勇気をもらえました。
再生回数が700回にも満たないのがもったいないほどの動画です!
是非ご覧ください。
将来、今の抑うつ状態を
そんな時期もあったな、青春だな
と笑い飛ばせるように、これからも誘惑に負けずに真剣に生きようと思います。
ご覧いただきありがとうございました!
是非、次回の投稿もお楽しみに!