2025年6月17日「情報化」

過去どのような教育を受けてきたのか
普段は何をしているのか
何をなしたのか
どれくらい社会的信用を持っているのか

将来何をする予定なのか
長所と短所は何か
それをどのように活かしていくのか

どのような見た目をしているのか
どのような話し方で、どのようなコミュニティに属しているのか

我々は情報化され、情報が前景化した
そして、情報が独り歩きしている

人生100年と言われる時代に、我々はどれほどの情報を生産するのだろうか
長期間かけて生み出された情報同士に、果たして整合性はあるのだろうか

もちろん、そんなものはないはずだ
人間は不合理で矛盾した生き物である

少なくとも僕はそう思う。

情報化する人間像に抵抗する方法は三つあるように思う。

一つは、情報は情報として保留し、ありのままの存在を認め合うこと
一つは、情報などお構いなしに各々が自分が好きなように突き進むこと
もう一つは、情報化されないようにお互いを隠すこと

どれが幸せなのか
言わなくてもわかる人たちが残っていることを願いたい。

2025年6月16日「交差点」

今住んでいるマンションの近くに、信号のない交差点がある。
大通りと小道が合流する横断歩道のある交差点だ。

朝から昼にかけて、そこにはパトカーが息をひそめていることを僕は知っている。

そして、およそ1時間に1回のペースで車両が止められる。
恐らく、横断歩道前で一時停止をしていないか、あるいは歩行者がいるにも関わらず前進してしまったからだろう。

交通安全を守り、交通ルールを周知するうえで必要なことは十分に理解する。
しかし、どこか申し訳なさを感じる。

運転がめちゃくちゃな人はたくさんいる
信号無視。コンビニの駐車場を使ったショートカット。スピード超過。
ただ、彼らは見つかっていない

たまたま、惰性で運転してしまった人がいる
彼らは見つかった

田舎の深夜の道路は、信号も歩行者もいない
車は皆、高速で通過していく
ただ、彼らは見つかっていない

権威というものは、ときにその存在を証明するために必要以上の自己主張を行う。

本当に、その権力行使は妥当なのだろうか。
権力行使の影響力と取りこぼされた問題に自覚的にならない限り、権力行使のたびに信頼が堕ちていくのではないか

現在の日本では、人の上に立つ人の教育が行われていないように感じる。
皆、誰かの下にいるときには文句を言い、いざ権力側に回ると自己弁護を始める。

権力者に見つかって自分が不利益を被らなければ、何をしてもいいのだろうか。
他人に迷惑をかけなければ、何をしてもいいのだろうか。

人の上に立つ教育がない限り、下の者は上に立つことの重大さを理解しない
それは、下の者としての振る舞いにも悪影響ではないだろうか

選挙が近い。

僕は誰にも期待できない。

政治家にも、国民にも、自分自身にも。

2025年6月15日「反省」

ただの言葉遊びでしかないが、日々生活していると、反省する人としない人に出会う。

自分はどちらなのだろうか。

この手の問題は、見かけによらない

他人の意見に素直に適応する人
自分自身で考えることを諦めている人
周囲の人と同調的であることを望む人

最近は、どこか反省していないように見える人々が、実は反省の達人なのではないかと思えてきた
彼らは権威主義的でご都合主義的に見えてならないが、そのような態度は反省の産物なのではないか

僕は反省しているふりをしている
他人の意見を吟味し、その真意を見極めようとし、自分自身の行動を振り返ってどうすればよかったのかを考える

これを人は反省と呼ぶかもしれないが、単なる現実逃避なのではないか

自分自身のことは自分自身では分からない
その事実を素直に受け入れて、他者の意見を取り入れ、コミュニティに浸透していく

本来反省がそのような行為のことを言うのであれば、自分は何をしているのだろう。

2025年6月14日「予定」

今日は予定がある。
嬉しい予定だ。

話は少し変わるが、僕は基本的に時間にルーズな方である。
遅刻はするし、遅刻されても何とも思わない。

むしろ、本を読める時間ができてラッキーくらいに思う。

もちろん、そう思わない人が大多数で、そちら側が一般的であることは十分に承知している。

問題は時間にルーズな僕が他人の予定に合わせる場合に生じる。

どうでもいい予定には、基本的に間に合わない。
間に合わなくていいと思っているわけではないのだが、どうにも体が動かない
ひどい時には、出発予定時刻に身支度を済ませて玄関に立っているのに、後ずさりしてキャンセルの連絡を送る

非常に申し訳ないが、本当なのだ。
相手には、非常に申し訳ない。

どうでもよくない予定には、すべてを犠牲にして間に合わせる。
具体的には、出発予定時刻まで、家を出るまで、寝ない。

すべては遅刻しないため。
仕方のない犠牲だ。

根底にあるのは、再現性かもしれない。

多くの人は当たり前のように、毎朝起きて日常生活を送る
気合なのだろうか。責任感なのだろうか。それとも、規則正しい生活というものだろうか。

僕はいまだに、明日が来る確信がない
もし仮に今日、朝早く起きれたからといって明日また早く起きれるとは思えない

だから、一日を切り上げずに、継続させることでしか、遅刻しないすべはない

果たして、明日は来るのだろうか。

2025年6月13日「引力」

自分探しは、経験的にも学術的にも意味がないらしい

ただ、どうにも無視できないほどに自分が存在している
そして、その強力な重力圏から脱出することができずにいる

気が付けばいつも引力に引き付けられて元通り
今回こそはと思っても、強力な引力には逆らえない

非生産的な自己から距離を取るべく、他人や社会、信仰に身をゆだねようと思う時がある
ただ、自己の引力はそれほど甘くない
常に僕を引き戻してしまう

いっそのこと自分を探し出して重力そのものを無効化しようとも思うが、それも上手くいかない
自分そのものは存在せず、外部との接触によって常に生成し続けるようだ

体が重いのは、この強力な重力のせいだろうか
どうすればこの強力な重力圏を破壊できるのだろうか

2025年6月12日「言葉」

時期が時期なだけに、将来何をしたいのか、将来どうしたいのかを聞かれることが多い
そして、答えに詰まると自らの人生を主体的に生きていない人間だとみなされているように感じる

色んな人が答える将来像を見聞きしてきた
ただ、将来について述べる人には共通点があるように思う

異性からちやほやされたい人
お金や権力を持ち、人の上に立ちたい人
社会的なステータスを身に着けたい人

そして、僕の将来像はそのどれでもない気がしている
では、自分は何がしたいのか

それは、言葉を残しておくことなのかもしれない

僕自身は、僕自身を残したいとは思わない
お金や地位や名声など、自分自身を記憶させる何かを獲得したいとも思わない

ただ、僕が発した言葉が、それを聞いた人の人生に何かしらの影響を与えるなら、それほど嬉しいことはないように思う

その言葉と僕自身を結びつける必要もないし、その言葉で人を洗脳し、何かを得ようとも思わない
ふとした瞬間に思考を展開する絶妙なキーワードを可能な限り残しておきたいのだ

今現在、僕がやりたいことはそれなのかもしれない

2025年6月11日「定常」

今日は心に余裕がある
嵐の前の静けさのように、定常状態のようだ

人間は、あるいは少なくとも自分は、すごく不思議で矛盾した人間だと思う

平穏な日々を送り、何事もなくゆったりと過ごしたいと思っているが、
いざ何事もない心理状態が到来すると、困惑する

このままではいけない
ルーティン化した快適な環境から抜け出さなくてはならない

そんな焦燥感に駆られる

少しずつ、やることを増やしていこうかな

なんだか日々同じことの繰り返しのように感じる
気付けばまたこの瞬間。毎日デジャブの繰り返し

繰り返しの毎日の中で時間感覚を失い、気付いた時には時間があっという間に過ぎ去っている

これではいけないのだ

予測不可能な変動に耐えながらもがく時間
安定したさざ波を感じ味わう時間

その両方のバランスをうまくとりながら、前に進んでいきたい

2025年6月10日「食欲」

行こう行こうと思っていた買い物にようやく行けた

なぜこんなにも腰が重いのか
自分でも不思議でならない

表面的にはスーパーのまぶしい白色光とその照り返し、騒々しい音楽が苦手
いつの間にか必要かも分からないものを買わされている気がするからかな

最近は食欲も特にない
空腹感は感じても、食べたいものがあまりない
味を想像するだけで、味を一口確かめるだけで満足してしまう

心のどこかで、自分自身に食べる価値を見出せていないのではないだろうか

昔の人はこれを罪の意識とでも呼んだのだろうか
そして、精神の救済を求めたのだろうか

明らかに栄養失調かなと感じることもあるが、ひと昔前の人々の精神性を感じられるなら
それでもいいかなと思っている自分もいる

食べたいものがあれば、食べよう。

2025年6月9日「軽快」

心が軽い
本を読み進めることができた

どっちが先なんだろう

本を読んだから、心に余裕ができたのか
心に余裕ができたから、本を読むことができたのか

いずれにせよ、読書は心にエネルギーを注入してくれる

なんだか、満たされた気分だ

2025年6月8日「不純物」

最近は4時に寝て9時に起きている
あまり寝むれない

今日は、研究発表の夢を見た
なんだろう。やっぱり、発表は好きだし研究も好きだ
聴衆を前にして話すあの景色は忘れられない
朝からなんだかやる気に満ちていた

ただ、いい一日になるかと思いきや、そうでもなかった
たったひとつのことをするのにも腰が重い

やるべきことはたくさんたまっているのに、なぜだろう

たぶん、やるべきことをこなした先に待ち受けている他者が怖いのだ

自分自身を物体として対象化しているようなまなざし
一挙手一投足がすべて評価の対象となってしまうようなまなざし

ロカンタンもこんな気分だったんだろうか
吐き気を感じる気もしてきたな

先週直面した他者性をいまだに解消できずにいるのかもしれない
今日中に、膿をすべて取り除きたい

九州から西日本にかけて雨が降るらしい。
気圧の変化による体調の不安定さを感じるのは気のせいだろうか。

深夜、配信が終わった後においしいものでも買いに行って、明日以降に備えよう

2025年6月7日「侵食」

人間が好き。他人が好き。自分の外部に存在しているものはすべて好き。

ところが油断していると、外部が内部を侵食しようとしてくる
自己と他者の境界をあいまいになり始める

侵食してくる他者性を排除するには少なくとも一週間の隔離が必要

我ながら、なんとも面倒くさい
いい具合に過ごしたものだ

先週かき乱された境界を、ようやく整備できてきた気がする

今週も頑張ろう

2025年6月6日「研究」

気が付けば金曜日
今週は、研究的にはいまいちな一週間だったかな

とにかく、頭が痛い。首が痛い。肩が痛い。

今日も今日とて、研究のあり方に悩む

仕事としての研究か、芸術としての研究か。

周囲の人が取り組んでいるのは、あくまで仕事としての研究

課題があって、チームで問題を解決しようとする。
大事なのは結果であって、依頼主の反応であって、その結果得られる報酬や評価である
問題解決のためには、他者との協力が不可欠であり、それゆえに人の命令を聞かなければならない。
報連相を徹底して行い、他者が要求する情報を常に発信し続けなければならない。

ただ、僕が志した研究とは、芸術としての研究なのかもしれない

打算的な思考を一切排除して、自然を純粋に記述するような研究
僕は、実験によって垣間見れる自然の神秘という享楽におぼれたい

その場には、自己なんてものは存在しない
自然の奴隷として、我々は自然の性質を記述するだけ

評価を求めて絵を描く芸術家はどこにいるのだろうか

真実の表現形式を求めた結果評価された芸術家は多いとしても、
その前後関係をひっくり返してはいけないように思う

もちろん、芸術性に付随する孤独に耐えられない人には、苦行以外の何事でもないようには思う。

僕もときどきつらくなる。
それでも、居心地の悪さに心地よさを覚えていたい

2025年6月5日「逃げ」

今週は、もしかすると、やらなきゃなあと思って先延ばしにしていた物事を解消する週なのかな
借金を返済している気分。
貯金ができればいいけれど、マイナスがゼロになるのも大切だよね

しんどいときは、大抵はやらなければならない物事から逃げているとき
いざそれに向き合ってみると、上手くはいかないにしても、気持ちは楽になる

結局、逃げてたんだなあ
結局、甘えだったんだなあ

さて、このような経験をしたことがある人も多いはず
だからこそ、気持ちの沈んだ人に対して甘えだと言ってしまう人もいるかもしれない

その気持ちは、まあ分からなくもないし、完全なる悪意で言ってくる人にはまだ会ったことがない。
背後には、みんなつらい状況から脱してほしいという思いやりがある気がする。

では、少なくとも自分自身にとって正しい内容を、他人に伝えることは正しいことなのだろうか。

その問いに対する答えは分からない
ただ、時間性に対する配慮が抜け落ちると、事態は悪化するような気がする

その人は、今、現在進行形で苦しんでいる
同じように苦しんで甘えだったと気が付いたのは過去の私で、それを伝えるのは今の私
そして、今の私は、今の相手を無理やり未来へと導こうとする

コントロールできない時間性をむやみに横断するのは、越権行為ではないかな

気持ちが沈んでいる期間は、弱い自分と向き合うための体力づくりの期間なのかも
あくまで、自分と相手の時間的な位相は合わせてほしい

あんまり、人の人生のネタバレばっかりしないでほしいね

2025年6月4日「生産」

固定ページを作ってみた
なんだか、作ってみたかったから

もしかしたら、支離滅裂な言葉の羅列になるかも
もしかしたら、詩のような形式をとるかも

どうなるかはよく分からないが、とりあえず日記のように書いてみる。
いつまで続くかな。

根底にあるのは生産に対する意識かも

日常生活における経験と読書によって情報を仕入れ、自分なりに咀嚼し、
ブログ、Podcast、生配信など、様々な形で出力してきた。

その瞬間はとても楽しい
自分の言葉が誰かに届いているなら、それも幸せだ

ただ、吐き出される言葉はどれも噓くさくてたまらない
なんだか、単に時間を消費するために言葉を乱発しているような感覚
自分なりの言葉を生産しているように見えて、実はずっと消費者でしかないのだろうか

現在から過去を見返すとき、その場に確かに存在し自分自身を支配していた文脈は消え去っている
そして、その文脈は容易には再生産できない。
ただ、文脈という空気感抜きにして当時の僕の言葉は意味をなさない

浮遊する言葉それ自身は、本当に自分自身の思考の産物なのだろうか
言葉によって構築された「私」というイメージは、本当に自分自身を投影しているのだろうか

言葉を発した瞬間、それは直ちに自分の外部へと飛び出していく
それはもはや、僕にとって他者だ

そんな感覚があるからか、他人とのコミュニケーションは基本的に上手くいかない
僕が放った言葉は、もう既に僕のものではないのだ

だから、自分自身の言葉を踏まえた指摘やアドバイスは、どこか虚しい
相手が自分自身に向けているベクトルは実は現在の自分自身に向いていないと感じながら、過去の自分の言葉であることには代わらないので、仕方なく自らその射程に飛び込んでいく意識が働くからかな

最近は、歌手やダンサーの気持ちがすごく気になる。
何回も同じ曲を歌い、同じ振付を踊る。それはなんだろう
自分の歌を歌い、ダンスを踊っている感覚があるのだろうか
それとも、歌わされ、踊らされているのだろうか

これまでは、文章化するまでもないちょっとした思考をPodcastなどで発信してきた
ただ、やっぱり文章として残しておくのが重要な気がしてきた

言葉に踊らされている感覚は、実体化されていない脳内の記憶を頼りに思考するからなのかも

文章を書くハードルを下げるために、言葉を生産し明確に記録しておくために、
このページをメモ代わりに使ってみようかな

というか、そもそもブログって、こういう文章のことをいうんだよなあ