ホーム » 大学生活 » [学生最後の関門] 研究室がつらいあなたへ。―研究以前編―

皆さん、お久しぶりです。
Matephysiです。

いかがお過ごしでしょうか。

最近、ブログの統計データを眺めていると、
「研究室 つらい」
「研究室 やめたい」

と検索して結果、僕のブログにたどり着いた方が一定数いることが分かりました。

これを見ている方も同様の悩みを抱えてこのページを開いたのではないでしょうか。

今日は現役の博士課程学生の僕が
研究室のつらさとその対処法について、お話ししようと思います。

はじめに

以前、この記事の主題と同じく「研究室がつらい」という学生に向けて
[研究室はつらい!?] 研究室で病まないために意識してほしいこと
[研究室つらい] 研究室がつらいあなたへ。―研究着手編―
という記事を投稿しました。

特に、直前の記事では「研究着手編」と称して、
実際に研究を行う際に意識してほしいことをまとめました。
過去の自分の意見なので、今見返すとなんだか未熟で恥ずかしい気もするのですが、
是非そちらも参考にしてみてください!

ただ、今冷静に思い返してみると、
そもそも「つらい」というネガティブな感情を抱いてしまっている状態にもかかわらず、
研究に着手する際のコツを伝えることは
ネガティブな感情の払しょくに対してはあまり効果的でないように思えます。

過去に戻れるなら、当時の自分のナンセンスを指摘したいくらいです。笑

したがって、今回は「研究以前編」と称して、
研究云々に関わらず、考えておいてほしいこと
を中心に記事にしたいと思います!

皆様の研究室生活が実りあるものになることを祈っています!

体のSOSには素直に従おう!

まず、大前提として、
「つらい」「やめたい」「逃げたい」「人生終わった」
というようなネガティブな感情は、それ単体で生まれてくるものではありません。

最近では、ネガティブな感情が生じるのは身体の物質的不具合に由来し
脳内物質の不均衡や自律神経の乱れ、運動不足のせいであるという考え方もあります。

しかしながら、それはあくまで
精神的体調不良という現象を説明するための要素であって、根本原因ではありません。

例えば、いくら生活態度を整えたところで、高ストレス下での生活を余儀なくされれば
いずれまた体調を崩すことになることは想像に難くありません。

そのため、
ネガティブな感情は外部からの刺激によって生じているんだ
と割り切って考えましょう。
そして、インターネットやSNS上で溢れる自己責任論や還元主義的言説は一度忘れて、
自分自身の身体の正常な反応としてのネガティブな感情を認めてあげてください。

このとき、例えば、
心を許せる家族や友人、恋人に話す
紙に気持ちを思いついたままに書き起こす
信頼できる先輩や先生、医師やカウンセラーに話す

というのが有効だったりします。

自分は今、つらい状況に追いやられている。
クソ!何とかしてやる!負けてたまるか!!

そういう気持ちがふつふつと湧き上がるまでは、
体からのSOSに身を委ねてしっかり休んでくださいね。

悩みを全肯定する

そもそも、つらいと悩むのは
どうやっても解決できないという閉塞感や無力感を感じるから
ではないでしょうか。

そんな状況下でいきなり問題解決行動をしようとしても、
体は思うように動きません。
また、下手に力むとやる気が空回りしてしまい、
学習性無力感へと没落しかねません。

先にも述べた通り、まずは悩んでいる状態を全肯定しましょう。
それがすべての出発点です。

ただ、悩みがネガティブな感情を伴い、社会的評価も低いことから
一見すると悩んでいる状態を肯定するのは困難なように感じてしまいます。

ここでは、どのように考えれば肯定が可能になるのかを記述します。

悩みの一般的評価

現代社会において、悩みは非常に過小評価されているように思えてなりません。

つまり、悩むという行為は個人的世界に閉ざされた行為であり、
非生産的行為だと評価されているように感じます。

また、悩んでいる人に対しては、

失敗を恐れずに行動するからこそ成功するということに気付いていない残念な人
悩んでいる人は”悩んでいるかわいそうな自分”を演出したいだけ
悩んでいる暇があれば行動した方が効率が良い

というような、意識だけ高い心無い言葉がネット上では飛び交っています。

挙句の果てには、悩むことそのものを非効率で不必要なものとして
悩みを人生から排除したり、できるだけ忘れ去るようとする努力

を推奨する場面も見かけます。

本当にそうなのでしょうか?

もちろん、人生はつらいより快適な方がよいのかもしれません。
悩みに押しつぶされてしまうなら、悩まない方がよいでしょう。
しかしながら、それは悩みの一側面しか見ていないように思えてなりません。

下記の理由で、悩むというのも、立派な行動の一つだと僕は思います。
むしろ、悩むという個人的行動の価値を矮小化し、
社会的行動の必要性へと飛躍する言説は、
それがどれだけ正論だろうが、空虚で役に立たないとすら言えるのではないでしょうか。

悩みとは何か

では、悩みとは何なのでしょうか。
そして、上述のように悩みを過小評価して無視するということは、どういう行為なのでしょうか。

「つらい」という感情が自分自身の無力感から生じることから、悩みとは、
達成が難しい理想や解決困難な現実問題と、それを解決したい自分自身の無能能力の間で生じる
と言えます。
そして、悩みという存在を否定するということは
理想や問題を自分の手には負えない物事だとして諦めること
と言えます。

すなわち、悩みを放棄するということは、現状の自分で満足するということではないでしょうか。

ここで、皆様がどのようなことで悩むのかを改めて思い出してください。

ウサイン・ボルトのように、100mを人類最速で走れないことに悩みますか?
料理動画の手順通りに作ったのに材料を焦がしてしまって不出来だったことに悩みますか?
トランプタワーのように、自分の名前を冠した高層ビルが建てれないことに悩みますか?

あくまで例なので、上記のことで悩んでいる人がいれば申し訳ないのですが、要するに、
そもそも不可能だと感じ、興味もない理想や目標に対して、我々は一切悩まないのです。

繰り返しになりますが、我々が悩んでいるのは、
達成したいと感情を動かされ、なんだか手が届きそうな目標に対して
現状の自分自身の無力感に直面するから

と考えられます。

悩むことを中断することで、現状の自分で満足しありのままの自分で生きると聞くと、
なんだか聞こえが良いかもしれません。
ただ、ここでは否定的な意味合いで表現しています。

なぜなら、上述の悩みの定義に従うならば、
悩むことができるという事実そのものが、その人自身の可能性を体現している
からです。

悩みは常に虚無感や劣等感を伴います。
それはとてもつらく、終わりがないように思えてなりません。

しかしながら、「神は乗り越えられる試練しか与えない」と古くから言われているように、
「悩みは、成長の可能性を持つ者にしか訪れない。」と断言できるのです。

自らの万能感という幻想を死守するために、悩みを放棄して、
そして、その先にある目標達成をも諦めてしまうことの方が大きな機会損失です。

不安への対処法

十分に体力も気力も回復し、悩む自分自身も肯定できたら、
ネガティブな感情を解消して、気分のいい毎日を送る準備をしましょう。

さて、悩む行為を肯定できたとしても、悩みに適切に対処できないと
悩みという底なし沼に飲み込まれて抜け出せなくなってしまうのも事実です。

そのため、以下では悩みというネガティブな感情に対する適当な態度に注目したいと思います。

ここでは、科学的方法に則ってネガティブな感情を解消する方法を紹介します。
すなわち、仮説・検証という反証プロセスを経由してストレスを解消する方法です。

1. 「つらい」原因を探す

まずは、ネガティブな感情を引き起こす因子を探し出します。

特定の人やモノのせいなのか、はたまた自分自身のせいなのか、
研究の方法のせいなのか、テーマのせいなのか、などなど、
思いつく限りの原因の可能性を書き出してみてください。

もしかすると、研究とは関係のないことに苦しんでいるのかもしれません。

厳密な意味で特定することは不可能に近いですが、
仮説として「これかな」と思える要素をいくつか見つけ出してみましょう。

ストレス誘発因子の仮説が立てられれば、もうゴールしたといっても過言ではありません。
なぜなら、それを解消する方法を考えることに集中すればいいのですから。

2. 戦略を立てる

「つらい」の原因にあたる要素に程度目星をつけたら、その要素を無効化する戦略を立てましょう。

例えば、お腹が空いたと感じたならば、
・何を食べたいのか
・最後に食事をしたのはいつか
・何かを食べることで該当の欲求不満は本当に満たされるのか
・食事に必要な材料や予算、時間はどれほどか
などを考慮したうえで、次に行う行動を決めると思います。

これをご覧の皆様は大学4年生や大学院生だと思うので、わざわざ説明する必要はないと思います。
具体例を用いて説明しようとすればするほど、大げさで噓くさい話になってしまいます。

とにもかくにも、
ストレスの誘発因子を無力化するために必要な物事を考えて次の行動を決める
のです。

なお、このとき「正解」や「模範解答」はないことを意識してほしいと思います。

誰かに話すようなことでもないので、間違いを指摘される危険を恐れず、
安心して自分オリジナルの計画を立ててください。

3. 原因に対処する

計画した戦略を実行することで、ネガティブな感情を引き起こす要素の対処を試みます。

ここで、注意してほしいのは目標が
「原因を根本から解決する」
ではなく、あくまで
「原因に対処する」
であることです。

上記の計画段階では、
ストレスの要因を完全に取り除くための計画を立てることを念頭に置きましたが、
その計画を完璧にやり遂げる必要はありません。

掘り下げれば掘り下げるほど別の課題が見つかり、課題という袋小路に拘束され、
問題解決の手法が問題を生むというマッチポンプになり兼ねません。

色々やっているうちに、なんだかネガティブな感情が消えていったなら、それで十分だ
と思いましょう。

4. 仮説と検証の反復

もちろん、たった一つの計画ですぐにポジティブな感情を取り返すことができるなら
ネガティブな感情に苦しむこともないはずです。

現実では、
立てた理想的計画はほぼ挫折するか
計画通り実行しても問題が解決せず

思うようにはいきません。

先述の通り、目標と自分自身の無力感の狭間で悩みが発生するのであれば、
ここで再び悩みという暗闇に飲み込まれてしまう危険性もあります。

ただし、科学的方法、すなわち仮説と検証を反復する方法に則るならば、
その危機を回避することができます。

我々は、ネガティブな感情を誘発する因子の一つを解消するために計画を立て、実行し、
現在の状況へとたどり着きました。

もし状況が改善されていないのであれば、
・着目した因子は、ネガティブな感情を誘発する因子ではなかった
・立てた計画にはストレスへの対処に対して問題があった

ことが考えられます。

すなわち、仮説と検証の過程によって、
そのいずれか、およびその両方を見誤っていた可能性を発見するのです。
そのため、次にすべきことは仮説として着目した因子の見直しか、計画の見直しか、その両方です。

ネガティブな感情を感じなくなるまで、その反証過程を繰り返しましょう。

なお、悩みへの対処を無限に繰り返さなければならないと聞くと、
終わりのない旅に出るかのような恐怖心が湧き上がってしまうかもしれません。

それはそれで否定する必要のない感情だと思いますが、
・ストレスの原因が特定できなくても、ネガティブな感情が消えたら対処を終えてよいこと
・仮説立案時と仮説再検証時とで一見状況が変わっていないように見えても、置かれた状況に対して知っている情報が確実に増えていること

という2点を意識して、恐怖心に立ち向かって欲しいと思います。

精神療法的側面

僕は理系人間なので、どうしても自分自身も事物を扱うように対処してしまう癖があります。
そのため、上記のように、科学的方法論に則ってプログラムのように不安に対処しがちです。

もちろん、それだけが不安に対処する方法ではありません。
むしろ、機械的で血が通っていないような気がするという意味では、少数派かもしれません。
さらに、人間の不安定な心理状況の結果として生じる不安や悩みに機械的に対応することに
本当に効果があるのかは疑わしいところです。

ここでは、いくつかの精神医学における知見を踏まえて
不安に対処する際に意識してほしいことと、それを説明する概念を紹介します。

上述の方法を採用しない場合であっても、以下の概念を頭の片隅に置いておくと
効果的に不安と向き合うことができるかもしれません。

意識してほしいこと

実は、上記の対処法を紹介する際には以下の点を意識するように言及していました。

すなわち、
・生み出された計画は自分オリジナルであり、「正しさ」は関係ないこと
・仮説的要因を解決するための計画は、必ずしも完璧に遂行される必要はないこと
・対処法は、負の感情を金輪際排除することではなく、一時的にでも忘れ去ることを目標にすること
・仮説に基づく計画が無効だったとしても、その情報を得ることができたことを評価すること

を意識して、不安に対処してほしいのです。

それらの観点を意識することで、上述の対処法は画一的なマニュアルではなくなり、
常に変化し続ける我々の心情に対して効果を発揮すると考えています。

なぜ上記の点を意識してほしいのかは、
「ネガティブ・ケイパビリティ」および「対話の機能」
に着目することで明らかになると思います。

ネガティブ・ケイパビリティ

ネガティブ・ケイパビリティという考え方は、
ローマ スペイン広場の片隅のアパートで自戒した詩人ジョン・キーツによるものです。

精神科医で小説家の帚木蓬生は著書「ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力」にて
詩人キーツの生涯やキーツの考えを再発見し精神分析に取り入れた精神科医ビオンの生涯を振り返り、
ネガティブ・ケイパビリティの全体像を論じています。
また、著者自身の知識や経験、臨床体験に基づき、
ネガティブ・ケイパビリティが人間の生活を根底から支える能力であることを記述しています。

ここでは少しばかり上記の本の内容を引用させていただき、
ネガティブ・ケイパビリティを紹介しようと思います。

キーツは詩作と向き合う過程で、
シェイクスピアという偉人の文学的才能の源泉を次のように発見したようです。

経済的な困窮の中で、詩作の苦しみから、キーツが導き出した概念が、「受身的能力(passive capacity)」です。キーツはこれを言い換えて、共感的あるいは「客観的」想像力と言います。これが「エーテルのような化学物質」で、想像力によって錬金術的な変容と純化をもたらして、個別性を打ち消してくれるのです。この「屈服の能力(capability of submission)」こそが、個別性を消し去って、詩人は対象の真実を把握できると考えました。

(中略)

キーツの手本はあくまでもシェイクスピアであり、読みふける間に、シェイクスピアが持つ「無感覚の感覚(the feel of not feel)」に気がつきます。対象に同一化して、作者がそこに介在していない境地をさします。ここにキーツはシェイクスピアの情感的、霊的な偉大さを内在化させたのです。

(中略)

この手紙のひと月前まで、「真の才能は個性も持たず、決まった性格も持たない」と言っていたキーツが、真の才能は個性を持たないで存在し、性急な到達を求めず、不確実さと懐疑とともに存在するという考えに至ります。この能力こそが、シェイクスピアのように、他の人間がどう考えているかを想像する力に直結すると結論したわけです。

ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力, 帚木蓬生(著), p.26-27.

キーツによる上述の発見を端的に言い表す言葉が、ネガティブ・ケイパビリティです。

さらに、この概念を精神科医ビオンは再発見し、精神分析の中に組み込んだようです。

キーツがネガティブ・ケイパビリティを持ち出したのは、詩人や作家が外界に対して有すべき能力としてでした。ビオンは同じく、精神分析医も、患者との間で起こる現象、言葉に対して、同じ能力が養成されると主張したのです。
つまり、不可思議さ、神秘、疑念をそのまま持ち続け、性急な事実や理由を求めないという態度です。
そして、この章の末尾で、ビオンは衝撃的な文章を刻みつけます。ネガティブ・ケイパビリティが保持するのは、形のない、無限の、言葉ではいい表わしようのない、非存在の存在です。この状態は、記憶も欲望も理解も捨てて、初めて行き着けるのだと結論づけます。

ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力, 帚木蓬生(著), p.58.

そして、帚木蓬生先生の言葉を借りれば、ネガティブ・ケイパビリティは次のように結論できます。

ネガティブ・ケイパビリティは拙速な理解ではなく、謎を謎として興味を抱いたまま、宙ぶらりんの、どうしようもない状態を耐えぬく力です。その先には必ず発展的な深い理解が待ち受けていると確信して、耐えていく持続力を生み出すのです。

ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力, 帚木蓬生(著), p.77.

すなわち、ネガティブ・ケイパビリティとは
物事を対象化して対峙する態度をやめ、物事それ自身と隣り合わせで共存する姿勢を可能にする能力
であると言えます。
また、ビオンが採用したように、物事が問題や悩みである場合には、
解決するという主体的態度による早急な解決を試みず、自然と悩みが霧散するのを待つ寛容さの持久力
と表現できるのです。

ネガティブ・ケイパビリティの強大な力の下では、悩みも問題も謎も、
それそのものと同一化することで生まれる「大きな自分」によりその輪郭が消失する
と言ってもいいのかもしれません。
つまり、ネガティブ・ケイパビリティは
あらゆる問題や不安に留保をつけて受け入れさせることによって、調停してしまう
のです。

なお、ネガティブ・ケイパビリティの対義語としてポジティブ・ケイパビリティがあります。

これは、
物事を対象化して、自分自身が主体としてその問題解決に徹底的に取り組む姿勢
を意味します。
帚木蓬生先生も著書でも触れられていたように、
学校教育で育成の対象とされている能力がこのポジティブ・ケイパビリティです。

ここで、改めてこれまでの僕の記述を振り返ってみると、
上述の科学的方法による不安への対処もポジティブ・ケイパビリティを利用したもの
であることに気が付きます。
そして、ネガティブ・ケイパビリティが主張しているように
ポジティブ・ケイパビリティには限界があります。

すなわち、問題を解決する姿勢は
対象とする問題自体の存在が不確実である場合
問題解決を可能にする方法が、事実上実行不可能である場合
そもそも解決方法が存在しない問題を扱う場合

には無効であるのです。

したがって、科学的方法に基づく不安の対処というポジティブ・ケイパビリティの欠点を補うために
ネガティブ・ケイパビリティという側面を意識してほしいという意思

が上述の「意識してほしいこと」に込められています。

対話の機能

不安に対処する際に覚えておくとよいのではないかと考える精神医学的知見の一つに
「対話の機能」があります。

本題に入る前に、そのように思った経緯を少しばかり説明させていただきます。

オープンダイアローグ

まず、対話を重視する精神療法の一つにオープンダイアローグというものがあります。

オープンダイアローグはフィンランド発のケアの手法です。
治療者複数と患者からなるグループが「開かれた対話」を行うことで
統合失調症をはじめとする精神病患者に対して効果があることが発見されました。
治療者と患者、そして患者の信頼できる関係者が形成する小さな社会の中で
患者が存在を認められ、主体性を再獲得することで、精神病から回復するようです。

そして、オープンダイアローグという手法は次のような発想に支えられていると言います。

オープンダイアローグと未来語りダイアローグは、「言語の多数性」(言語的多様性)と「社会的言語」という2つの発想にもとづいています。

(中略)

いずれの実践においても、ポリフォニックな世界観が重要となります。全員が納得するような問題把握が目的ではありません。それとは逆に、そもそもの出発点は、参加者それぞれが問題について独自の見解を持つことです。それぞれの見方を互いに理解しようと試みることが重要なのです。新たな理解は、集団の境界領域において形成されます。そこでは、特定の個人の視点が、唯一の正しい理解として優先されることはありません。

開かれた対話と未来―今この瞬間に他者を思いやる, ヤーコ・セイックラ, トム・アーンキル(著), 斎藤環(監訳), p.168-169

すなわち、個々人が互いに独自の意見を出して受け入れ合い、意見が接し合う境界面に着目すること
がオープンダイアローグの特徴であることが伺えます。

そして、そのような対話形式は次のようにまとめられています。

対話的な関係は対話的な空間を求めます。また、対話は非対称性を原動力としています。他者の他者性を受け入れることは、その他者に同意することを前提としていません。しかし他者に従うばかりで、相違点にまったく触れなければ、対話的な空間は狭まります。対立する考え方に無理やり他者を従わせようとするのも、同様の結果になります。自身の思考や感情に対する純粋な内省的関心こそが、対話のための空間を開放します。
逆に相手をコントロールしようとする戦略的な手法は、純粋な内省的関心が生じる機会を邪魔してしまいます。他者の他者性に対して、賛同するかはさておき、敬意を払いことができれば、お互いに安んじて、敬意にみちた傾聴の余地が生まれます。このように聞いてもらうことがすでに、変化を促す対話的な関係になるのです。

開かれた対話と未来―今この瞬間に他者を思いやる, ヤーコ・セイックラ, トム・アーンキル(著), 斎藤環(監訳), p.176.

オープンダイアローグという対話形式には、
どこかネガティブ・ケイパビリティと共通する要素が感じ取れます。

すなわち、ネガティブ・ケイパビリティのような
他者を自分自身の理解が及ぶ対象としてではなく、他者の存在を尊重し
理解不能なものとして自分自身と共存する態度が対話を可能にする

と言えるのです。

僕は統合失調症当事者でも関係者でも、医療従事者でもありません。

ただ、僕は最近、このオープンダイアローグという精神療法に注目しています。
特に、オープンダイアローグの中で重要な役割を果たす「対話」に注目しています。

なぜなら、オープンダイアローグが発揮する精神医学的効果を説明する際に論じられる対話の機能は
精神疾患を持っていない人間にとっても重要な意義を持つと感じざるを得ないからです。
そして、うつ病など精神病が国民病として認識されている現代社会においては、なおさら
適切な「対話」を生活世界に位置付けていく必要があるのではと感じるからです。

日本では精神科医の斎藤環先生が中心となって
この手法の普及と哲学的・精神病理的説明の確立を行っており、
書籍も出版[例えば1, 2, 3]されていますので、興味があれば調べてみてください!

ポリフォニーの役割

オープンダイアローグが精神病からの回復に有効である理由を説明する記述において、しばしば
「多声性・ポリフォニー」という言葉に出会います。
実は、僕が「対話の機能」と称して取り上げたいのが、ポリフォニーです。

なお、詳細の議論には立ち入れないので、気になる方はぜひ以下の二冊をご一読ください。
・開かれた対話と未来―今この瞬間に他者を思いやる, ヤーコ・セイックラ, トム・アーンキル(著), 斎藤環(監訳), 株式会社 医学書院, 2019. (Amazon)
・イルカと否定神学―対話ごときでなぜ回復が起こるのか, 斎藤環(著), 株式会社 医学書院, 2024. (Amazon)
本章も上記の二冊を参考にしています。

オープンダイアローグを紹介する際に引用した記述にも「ポリフォニックな世界観」が大切であることが述べられていました。
繰り返しになりますが、オープンダイアローグでは
他者および他者が発する声が縦横無尽に行き交う環境で、それらを自分自身の声と共存させる態度
が、患者を治癒へと導くと考えられています。

では、ポリフォニーという性質がどのように機能しているのでしょうか。

精神科医の斎藤環は著書「イルカと否定神学―対話ごときでなぜ回復が起こるのか」において、
主にラカン、ベルクソン、そしてヤコブソンの提唱する概念を援用することで
人間を欠如によって主体性が駆動される存在とみなす精神分析の否定神学的側面
内面化された固定観念を喪失させ適切に再学習させること(学習Ⅲ)で思考の偏りを改善する側面
言語が隠喩であるという必然的性質により、言語は対象への直接的言及を先延ばし続けるという側面
に着目し、ポリフォニックな交流がどのような作用しているのかを論じています。

多様な価値観の共存を図るうえで、「声」がもっとも優れていることは論をまたないでしょう。意味を伝達するメディアとしては、ほかに表情やすぐさ、画像や文字、記号などが考えられますが、本質的な意味で「重ね」、「響き合わせる」ことができるのは声だけです。
声は重ねることで等価的な共存をあらわし、重なり合いから余白が浮かび上がります。この多声性の余白こそが、ポリフォニーの真価であると述べることもできるでしょう。

(中略)

対話的ポリフォニーの余白において、「コンテクストの共存可能性」を意識せずに受け入れることは、「コンテクストがつねに真理とは限らない」というメタコンテクストの自然な受け入れにつながります。メタコンテクストの受容は、すべての「小さな真理」がはらむ逆説を身体に差し戻します。このとき小さな真理は上書きされるとともに、新たな学習のスタイル、すなわち「逆説的真理の学習」という意味での学習Ⅲが成立すると考えられるのです。
「声」はまた、一つひとつが固有の声であることにも意味があります。それは個人の固有性を指し示すばかりではありません。声にはまた、固有の関係性も映し込まれるでしょう。

(中略)

ずっと自分自身の声として聞いていた「小さな真理」が、他者の声によって語り直されること。そうすることで、ときに「小さな真理」が、別のコンテクストのもとに置かれることになります。そう、ここにも学習Ⅲの契機があるのです。

イルカと否定神学―対話ごときでなぜ回復が起こるのか, 斎藤環(著), p.242-243.

僕なりにかみ砕き解釈すると、
ポリフォニーによる上述の再学習の作用は次のような状態を表していると考えられます。

我々は日常生活において様々な物事を見聞きし、体験し、
自らの身体を駆使して会得した感覚を言語化することによって、物事を学習していくと考えられます。

この過程で周囲と不調和を引き起こす固定観念が形成されてしまうことで、病的症状が出現します。
また、身体を用いた学習過程はその固定観念を経由するため、あらゆる物事が病的に内面化され、
精神病というコンテクストから抜け出せなくなってしまうのです。

ここで、他者との対話はその悪循環から抜け出すきっかけを提供する役割を果たすと考えられます。

つまり、他者が真理と称して発する他者の固定観念を全く真理としてみなせないという気付きは
自らの真理に対する疑念を引き起こし、
これまで信じてきた固定観念の次元を超えるメタ的な視点への飛躍をもたらします。
あるいは、自分自身の発する真理という固定観念を他者が反復することは、
言語は自分が想定する現象を忠実に表現できていないことに気付かせるのです。

したがって、オープンダイアローグにおけるポリフォニーの作用とは、
他者との対話を通じて自分が信じている固定観念の「これじゃない感」を痛烈に自覚し、
自らの身体感覚を基にした学習過程をゼロから再度開始して
健全な固定観念を再構築するきっかけを提供することだと言えるのです。

対話を回復させる

さて、ここまで概念的な紹介ばかりが続いてしまいましたが、
悩みに対処する際に意識してほしいことという本題に戻ろうと思います。

これまで述べたように、悩みやネガティブな感情は、
理想や目標に対して劣っている現実の自分自身
という認識から発生すると考えられます。

そのため、我々は、つらい状況を打破するために理想や目標を見つめ直したり、
自分自身の足りていない能力を養うことによって、不安を解消しようとします。
さらには、冒頭に述べたように、科学的方法に則り試行錯誤を繰り返すことで
不安の解消を試みることでしょう。

しかしながら、このとき我々は、自分自身の無力化や劣等感という固定観念に基づき
物事を見てしまっている
のです。
そして、どのように努力しても固定観念が拭いきれないままでは、
いつまでたっても負の循環から抜け出せなくなってしまうのです。

したがって、
本来、ポリフォニックな多様な「声」を保持することが可能な人間が、
たった一つのネガティブなコンテクストに閉じ込まれてしまう

ことこそ、つらく悩む不安な状況をもたらす原因と言えるのではないでしょうか。

そして、ここまで辛抱強く読んでくださった方であれば分かるように
固定化された否定的なコンテクストからの脱出を可能にするのが対話なのです。

残念ながら、オープンダイアローグのような交流方法を意識的に実践している人は多くありません。
無責任に心無い言葉を投げかけてくる人の方が多いと感じてしまうこともあるかもしれません。

自分自身も他者の助けになるように心がけながら寛容な人間関係の構築に努めるだけでなく、
自分自身の中に異なるコンテクストを内在させることを意識することも大切だと思います。

それを可能にする方法の一つとして僕が考えているのが、
仮説・検証や不安解消計画の挫折という過程において、自分自身は常に新たな情報を獲得し続けている
ことを意識することだと思います。

そして、新たに得た情報を基にしてコンテクストの読み替えをし続けることこそが、
不安の解消につながると考えています。

終わりに

とある物事に真剣に悩んでいると、どうしても独り語り(モノローグ)になりがちです。
そして、そのような態度は感情の負の連鎖を止めることができません。

最初に述べた通り、まずはありのままの自分を受け入れて休みましょう。

本当に深刻に悩み、病的症状が出てしまっている状況では、休むことすらもつらいと思います。
だた、そこは辛抱だと思って、なるべくストレスの感じない生活を送って心身を休めることを
おすすめします。

しばらく休息した後に、自分自身の内部でエネルギーがわずかでも突出してくることに気が付いたら
本記事で紹介した方法を参考にして、状況の改善に取り組んでみてください。

すなわち、ネガティブな感情を生み出す要素に目星をつけて、それを無効化する方法を考え、
ネガティブな感情が解消されるまで試行錯誤を繰り返してみる
のです。

繰り返しになりますが、このとき、以下の点を意識してください。
・生み出された計画は自分オリジナルであり、「正しさ」は関係ないこと
・仮説的要因を解決するための計画は、必ずしも完璧に遂行される必要はないこと
・対処法は、負の感情を金輪際排除することではなく、一時的にでも忘れ去ることを目標にすること
・仮説に基づく計画が無効だったとしても、その情報を得ることができたことを評価すること

なぜなら、不安の解消に最も役に立つ態度は、不安や問題という得体のしれない他者に対して、
自分自身の世界に他者を他者のまま存在させ、自分と他者とからなる大きな「私」を絶えず生成する
ことだからです。

今回は、研究室生活に不安やストレスを抱える学生さんに向けてつらさの対処法をまとめてみました。

しかしながら、本記事を研究以前編と称しているように
ここで述べたことは研究室生活だけに限った話ではありません。

仮説・検証という科学的方法やネガティブ・ケイパビリティおよびオープンダイアローグという概念が
皆様の今後の人生を支えるものになれば嬉しいと思います。
そして、本記事がそのような重要な概念と出会うきっかけとなっていれば幸いです。

ご覧いただきありがとうございました!
是非、次回の投稿もお楽しみに!

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