2025年6月6日
気が付けば金曜日
今週は、研究的にはいまいちな一週間だったかな
とにかく、頭が痛い。首が痛い。肩が痛い。
今日も今日とて、研究のあり方に悩む
仕事としての研究か、芸術としての研究か。
周囲の人が取り組んでいるのは、あくまで仕事としての研究
課題があって、チームで問題を解決しようとする。
大事なのは結果であって、依頼主の反応であって、その結果得られる報酬や評価である
問題解決のためには、他者との協力が不可欠であり、それゆえに人の命令を聞かなければならない。
報連相を徹底して行い、他者が要求する情報を常に発信し続けなければならない。
ただ、僕が志した研究とは、芸術としての研究なのかもしれない
打算的な思考を一切排除して、自然を純粋に記述するような研究
僕は、実験によって垣間見れる自然の神秘という享楽におぼれたい
その場には、自己なんてものは存在しない
自然の奴隷として、我々は自然の性質を記述するだけ
評価を求めて絵を描く芸術家はどこにいるのだろうか
真実の表現形式を求めた結果評価された芸術家は多いとしても、
その前後関係をひっくり返してはいけないように思う
もちろん、芸術性に付随する孤独に耐えられない人には、苦行以外の何事でもないようには思う。
僕もときどきつらくなる。
それでも、居心地の悪さに心地よさを覚えていたい
2025年6月5日
今週は、もしかすると、やらなきゃなあと思って先延ばしにしていた物事を解消する週なのかな
借金を返済している気分。
貯金ができればいいけれど、マイナスがゼロになるのも大切だよね
しんどいときは、大抵はやらなければならない物事から逃げているとき
いざそれに向き合ってみると、上手くはいかないにしても、気持ちは楽になる
結局、逃げてたんだなあ
結局、甘えだったんだなあ
さて、このような経験をしたことがある人も多いはず
だからこそ、気持ちの沈んだ人に対して甘えだと言ってしまう人もいるかもしれない
その気持ちは、まあ分からなくもないし、完全なる悪意で言ってくる人にはまだ会ったことがない。
背後には、みんなつらい状況から脱してほしいという思いやりがある気がする。
では、少なくとも自分自身にとって正しい内容を、他人に伝えることは正しいことなのだろうか。
その問いに対する答えは分からない
ただ、時間性に対する配慮が抜け落ちると、事態は悪化するような気がする
その人は、今、現在進行形で苦しんでいる
同じように苦しんで甘えだったと気が付いたのは過去の私で、それを伝えるのは今の私
そして、今の私は、今の相手を無理やり未来へと導こうとする
コントロールできない時間性をむやみに横断するのは、越権行為ではないかな
気持ちが沈んでいる期間は、弱い自分と向き合うための体力づくりの期間なのかも
あくまで、自分と相手の時間的な位相は合わせてほしい
あんまり、人の人生のネタバレばっかりしないでほしいね
2025年6月4日
固定ページを作ってみた
なんだか、作ってみたかったから
もしかしたら、支離滅裂な言葉の羅列になるかも
もしかしたら、詩のような形式をとるかも
どうなるかはよく分からないが、とりあえず日記のように書いてみる。
いつまで続くかな。
根底にあるのは生産に対する意識かも
日常生活における経験と読書によって情報を仕入れ、自分なりに咀嚼し、
ブログ、Podcast、生配信など、様々な形で出力してきた。
その瞬間はとても楽しい
自分の言葉が誰かに届いているなら、それも幸せだ
ただ、吐き出される言葉はどれも噓くさくてたまらない
なんだか、単に時間を消費するために言葉を乱発しているような感覚
自分なりの言葉を生産しているように見えて、実はずっと消費者でしかないのだろうか
現在から過去を見返すとき、その場に確かに存在し自分自身を支配していた文脈は消え去っている
そして、その文脈は容易には再生産できない。
ただ、文脈という空気感抜きにして当時の僕の言葉は意味をなさない
浮遊する言葉それ自身は、本当に自分自身の思考の産物なのだろうか
言葉によって構築された「私」というイメージは、本当に自分自身を投影しているのだろうか
言葉を発した瞬間、それは直ちに自分の外部へと飛び出していく
それはもはや、僕にとって他者だ
そんな感覚があるからか、他人とのコミュニケーションは基本的に上手くいかない
僕が放った言葉は、もう既に僕のものではないのだ
だから、自分自身の言葉を踏まえた指摘やアドバイスは、どこか虚しい
相手が自分自身に向けているベクトルは実は現在の自分自身に向いていないと感じながら、過去の自分の言葉であることには代わらないので、仕方なく自らその射程に飛び込んでいく意識が働くからかな
最近は、歌手やダンサーの気持ちがすごく気になる。
何回も同じ曲を歌い、同じ振付を踊る。それはなんだろう
自分の歌を歌い、ダンスを踊っている感覚があるのだろうか
それとも、歌わされ、踊らされているのだろうか
これまでは、文章化するまでもないちょっとした思考をPodcastなどで発信してきた
ただ、やっぱり文章として残しておくのが重要な気がしてきた
言葉に踊らされている感覚は、実体化されていない脳内の記憶を頼りに思考するからなのかも
文章を書くハードルを下げるために、言葉を生産し明確に記録しておくために、
このページをメモ代わりに使ってみようかな
というか、そもそもブログって、こういう文章のことをいうんだよなあ