目次
日記のような「2025年7月」
2025年7月30日「本調子」
ここ数日はとても浮かれていた
幸せだった
だが、同時に無でもあった
全ての物事が調和し、僕は輪郭を失っていた
少しずつ、現実へと帰りつつある
街は明るく、人々は輝かしい
本当にそれでいいのだろうか。
答えは常に問いの先にある
答えの先には、何もない
僕は問いを発し続けなければならない
2025年7月29日「清掃」
今日は、業者さんに頼んでエアコンを清掃してもらった。
引っ越してきてから7年間、大したケアをしてこなかったエアコンの内部はかなり汚かった
カビか微生物の死骸か分からないが、何かをまき散らしていたと考えると少し恐ろしい
もしかすると、長年の体調不良もこのエアコンが原因ではないかと、エアコン清浄の効果をかすかに期待してしまう
値段は相場通りとは言えそれほど安くはないが、自分では分解して細部を洗浄することはできなかったから非常に助かった。
2025年7月28日「活力」
1,、2か月に一回の頻度で活力がみなぎる日が来る
普段は全くない食欲が爆発し、他人のことが気にならなくなる
この世界の主人公は自分自身であり、人生は自分が幸せになるためにあるのだと心の底から思い始める
ただ僕はこの後にくる絶不調を知っている。
ある瞬間に高揚感が焦燥感に代わり、精神が身体を追い越し、動けなくなる
食べ過ぎによる胃腸への負担や、他人を無自覚に無下に扱う自己中心性の代償を負わなければならなくなる
今を完全に楽しむことができない
そしてそもそも、この高揚感は自分を内省へと導きすらしない。
2025年7月27日「幸せ」
ここ最近でこの上なく幸せな気分
最高だ
しばらくは幸せな気分に浸るとしても、
幸せな気分のまま創作活動をすることは出来るのだろうか。
ソクラテスは、良妻を持てば幸福になるだろうし、悪妻を持てば哲学者になると言ったらしい。
僕にとっては、幸福だろうが哲学者だろうが、幸せな人生だと思う。
2025年7月26日「決断」
今日は大きな決断をする日だ
今決めようが、あとで決めようが変わらない
なら、今決める
なかなか自己主張ができない僕が、ようやく決断をした日。
2025年7月25日「自信」
最近は、どうにもこうにも自信がない
何もできる気がしない
いや、できる
できることが多い
ただ、できない
できないのだ
2025年7月24日「鬼」
お前も鬼にならないか
鬼になろう、杏寿郎
そうすれば100年でも200年でも鍛錬し続けられる、強くなれる
杏寿郎、鬼になれ
これに対して価値観が違うと一蹴する杏寿郎
杏寿郎は結局死ぬことになるが、母との約束を果たし満足そうに力尽きる
僕は強くもなければ余裕もない
強くなる誘いを断る勇気すらない
ならばいっそのこと鬼になるか
いや、しかし、価値観は違う。そう思いたい。
2025年7月23日「物語」
僕はいつからか物語を作り、語ることに一生懸命になっている
自分が語る結末がどれほど陳腐で凡庸なものか、自覚してしまったからかもしれない
なぜその結末に至ったのか、その経路にしか自分らしさを見出せなくなっているかもしれない
自意識は、ときに他者をも規定する
物語のない人の話が分からなくなってきた
嬉々として誰にでも言えることを言っている人を不思議に思う
特に、なぜそのように思うに至ったのかに対する回答がない場合は、なおさらだ
ただ、僕はそうなりたい
僕もそうであったはずなのだから
2025年7月22日「階段」
先の見えない階段を下るように、一歩ずつ自己の中核へと降りていく
一歩一歩着実に
数段飛ばして降りることもできなければ、駆け足で降りることもできない
急ぎ足で降り立った先は自己とは全く異なる場所であることを知っているから
ときに人は親切心で別の舗装された道を提示してくれることがある
僕は弱い
すぐそちらに目が向く
そちらへ一歩踏み出そうとしてしまう
その瞬間、目的地であった自己は消え去ってしまった
都会では夜空に星を見つけ出すことができないのと同じだろうか
もう一度自己の中核へ向かう階段を探し当て、一歩一歩進んでいくしかない
時間がかかる
終わりはない
無駄かもしれない
でも、今はこうするしか生きていく道はない気がしている
今は、自分の不甲斐なさを誠実に認めなければならない。
2025年7月21日「今」
今、目の前に広がる景色
今、目の前にいる人
今、目の前にあるもの
あまりにもまぶしすぎる
僕らの目は、それらを直視するほど強くない
その輝かしい光が届かない場所へと遠のいたとき、僕らはそれらを眼差し、
初めてその偉大さを認識する
どうして今、目の前に広がる光景を尊ばないのか
どうして昔の出来事ばかり評価してしまうのか
何より、あまりのまばゆさに目を逸らしてしまうことへの言い訳を並べていた当時の自分を
どうしていつまでたっても反省できないのか
僕は弱くて情けない
僕は何もできない
それを心の底から認められたときにようやく
まぶしさの向こう側を見ることができるような気がする。
2025年7月20日「復活」
「日記のような」復活させました。
最近は、日々感じたことをX(旧 Twitter)に書いていたのですが、
どうあがこうにもネガティブで、他人の目に触れることを気にすると非常に申し訳なく感じます。
配慮の余裕がなく、ネガティブをポジティブに変換する度量もなく、
ただそれが今の自分なんだという思いもあり、
やはり、ブログというひっそりとした自分だけの空間に
だけれども誰かの目には止まる可能性がある空間に
言葉を残し続けようと思います。
X(旧 Twitter)のマテ日記はダイジェストになるかな。
とりあえず今は、文字数も読んでくれる人も気にすることなく、こちらに思いを綴ろうと思います。
日記のような「2025年6月」
2025年6月27日「二兎」
二兎追うものは一兎も得ず
最近は本当に色んな物事に手を出しすぎているような気がする
本当にやりたいことは何なのか
一つの物事を極めたのちに、他の物事に手を出した方が良いのではないか
このままでは、何もできない人になってしまうような。
何よりもまず、自分が他から頼られる専門家になることで、自分にはできないことを他の専門家に頼れるようになるのでは?
自分にはまだまだ足りないことばかり。
そして、欠如を他者との協調によって補う能力も意識もない。
漠然とした不安と焦りと、自分自身に向けた冷ややかな視線と、戦う毎日
いや、けど全部やりたいのだ
そして、傍から見たら分散しているようでも、自分の中では通底した一つの物事なのだ
時間はかかるかもしれないが、「学者」の名に恥じることがないような人になりたい。
でもやっぱり、凡人の自分はあまり欲張りすぎない方がいいのでは。。。
え、実は欲張れるのが才能なのか?
ふらふらと、今日も生きていく。
PS.
都合により日記のリアルタイム更新は7月1日まで止まりそうです。
手元のノートに、スマホのメモに、思ったことは綴ろうと思うので、時間ができたとき大量放出します。
2025年6月26日「位置」
目をつぶって暗闇を漂う
自分の意識がはるか前方にいることに気付く
身体は置いてけぼり
なんとか引き戻そうと手を伸ばすも、意識はなかなか動かない
身体が追いつくのが先か
意識が後退するのが先か
両者が一致したとき、前に進める気がする。
2025年6月25日「映画」
好きな映画はいくつかあるのだけれど、その一つが「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」だ
自分としては珍しく、もう4回見ている
今日は、おすすめしてもらった「聲の形」というアニメを見た。
なんだか似ているような違うような。
必ずブログ記事にしたい。
2025年6月24日「変速機」
僕の変速機は調子が悪い
適切なタイミングで、適切なギアに入ってくれない
坂道を登らないといけないのに、ギアが悪さをしてペダルが重くなる
勢いに乗らないといけないのに、ギアが悪さをしてペダルが軽すぎる
でもときどき、タイミングがばっちり合う
適度な負荷で、力を加えれば加えるだけ加速する
あの快感はどうしても忘れられない
次にタイミングが合うのはいつだろう
それまでは我慢して、ペダルをこぎ続けていたい
2025年6月23日「力場」
理系の人間としてこのようなことをいうのはどうだろうと思いながら、最近考えていることがある。
それは、存在の周囲には力場が存在しているということである
イメージとしては重力場である。
重力場は基本的に惑星間の万有引力を説明する際に用いられる概念だ。
大きな質量をもつ物体の周辺空間のゆがみを、僕は人間などすべての事物にも感じる
存在するだけで空間をゆがめてしまう
ゆがんだ空間は周囲の物体を巻き込み、自分自身も巻き込まれる可能性を生成する
自覚的であれ無自覚であれ周囲に影響を与えてしまうことに対する自覚は、社会生活や対人コミュニケーションにおいても大切な自意識ではないだろうか。
スピリチャルな観念かもしれない。
論理的に考えれば、是正すべき認知のゆがみなのかもしれない。
何より、物理学の知見の濫用にすぎないため不誠実だ。
ただ、存在が持つ特殊性を、僕はいつまでたっても無視できないでいる。
2025年6月22日「成熟」
脳を再起動したい
キャッシュがたまりすぎている
本来効率的に物事を進めるために蓄積されている記憶に、すべてが支配されすぎているのではないか
結果としてすべての速度が落ちているように感じるのだ
もちろん、脳は再起動できない
再起動した方が快適なのではないかという感覚があるにも関わらずだ。
では、それはなぜだろう
そのような機能不全な脳は、あまりにも低レベルな存在だと認識していいのだろうか
いや、そんなことはないはずだ
情報過多による脳の機能不全およびそれに対する対処法のなさは、人間が利己的で野蛮すぎることへの抑止力なのではないだろうかと思う。
我々は、たとえ同じ人間であろうとも、理解できない存在を強制的に排除しようとする。
自らの思想や利益のためであれば、なんでも出来てしまう狂気を持つ。
野生動物の中でも、我々は最も動物的であるのだ
動物的で野蛮な本能を抑圧する役割が、記憶や経験の蓄積にはある
様々な物事を見聞きし、知り、考慮できるようになる経験。
そのような経験が豊富な人のことを、我々は成熟した人と呼ぶはずだ
人間にとっての成熟は、一見効率的に物事を生産していけることのように思えてしまうが、実体はその逆なのではないだろうか
様々な視点を内面化できているからこそ、決断に慎重になり他者に寛容になることが、成熟なのだ
最近、インターネットやSNSの普及により、様々な人間の言動を簡単に目にすることができるようになった
また、それらは単純で素朴で大衆に受け入れやすい言説の方が流布される設計をしている
結果として、脳への負荷に忍耐することを拒み、安直で過激な結論に右往左往する人たちが可視化されている
僕も少なからずそのような人々の様子に影響を受ける
そして、そのような態度がとれることをうらやましいとすら思う。
だからこそ、脳を再起動したくなる。
何も考えずに、自分自身の利益だけを考えて行動できればどれほど楽だろうか。
ただ、僕はそのような誘惑に抵抗しなければならないとも思う
物事を即決し、自らの欲望に忠実に行動する人ばかりが賞賛される世界は、極めて未成熟な世界だと思うから。
2025年6月21日「映画」
「her 世界でひとつの彼女」という映画をPrime Videoで見た。
考えさせられると同時に、やはり日々感じている疑問にはいまだ誰も答えることは出来ていないのかとも感じた。
私たちが人とかかわる際に抱いてしまう過度な期待
他者とそれに付随する問題に、AIはどのような知見をもたらしてくれるのだろうか。
2025年6月20日「帰着」
選挙が近くなり、ネット上ではその話題を耳にする機会が増えてきた。
選挙では投票先という結論を出さなければいけないためか、多くの人々は決断の理由を探しているように見える。
もちろん、そのような態度を否定することはない。
ただ、理由付けを見てみると、非常に杜撰である。
○○は陰謀論者
○○がおかしいことは周知の事実
専門家は○○と言っている
一見、まともそうに思える言説は、実はすべてそれらが非難したいはずの対象と同じ行為をしていることに気が付かないのだろうか。
そこには、不安定な立場への不安に対処するべく決断を急ぐあまり、何かに依存したいという願望が如実に表れているのだ。
社会は複雑で不安定だ。
唯一の正解はなく、正解に近いと思っていた選択が最も遠いものであることもある。
不安定さを何かに帰着させようとする心理こそ、真っ先に批判されるべきではないだろうか。
2025年6月19日「音楽」
作業が捗るときには必ず、気分を盛り上げてくれる音楽がある。
その音楽は、面倒なことに向き合う勇気をくれる。
その音楽は、言葉にできない感情を上手に表現してくれる。
ただ、それと同時に、音楽はその存在感を消し、作業への集中力を高めてくれる。
フローに入れる音楽
最近はそんな音楽に出会うことが少なくなってきた
2025年6月18日「優先順位」
今の世の中は、とても生きづらい世の中らしい
そして、そんな世の中だからか、生きづらさを解消するノウハウが巷にあふれかえっている。
もちろん、僕自身も生きづらさを感じている。
同時多発的に不特定多数の人が同じような感覚を持っていることを不思議に思う。
なんとかならないものかと常に考えており、ノウハウ話も少しは参考にする。
ただし、生きづらさへの対処法の中に、どうも受け入れがたいものがある。
それは、他人を思いやる前に自分自身を大切にしようというものだ。
YouTubeやSNSをみれば、そんな言葉に簡単に出会うことができる。
一見、当然のことのように思える。
何をするにも自分自身が健全でなければならないと、僕らは思い込んでいるからだ。
本当にそうなのだろうか。
嫌なことがあってふさぎ込んでいるとき、店員さんのちょっとした声掛けで我に返ることだってある。
誰とも話したくない気分のときでも、事務的な手続きのために他人と話をすると心が潤いを取り戻す感覚がする。
人間は、どこまで行っても社会的な生き物であり、他者の存在なしには存在でいないのではないか。
自分自身に対する声掛けや、自分自身の状態ではなく、他者からの呼びかけこそが回復のきっかけなのではないだろうか。
今の世の中が生きづらいのは、むしろ、多くの人が自分自身のことで精いっぱいになっているからなのではないかと強く感じる。
いつの間にか、他者からの呼びかけに応答する意思を放棄しているようである。
その罪悪感を正当化する言説が、まずは自分から、なのではないだろうか。
生きづらさを感じる人が全員まずは自分からとなるよりも、まずは他人からとなった方が、生きづらさが解消されるように感じてならない。
2025年6月17日「情報化」
過去どのような教育を受けてきたのか
普段は何をしているのか
何をなしたのか
どれくらい社会的信用を持っているのか
将来何をする予定なのか
長所と短所は何か
それをどのように活かしていくのか
どのような見た目をしているのか
どのような話し方で、どのようなコミュニティに属しているのか
我々は情報化され、情報が前景化した
そして、情報が独り歩きしている
人生100年と言われる時代に、我々はどれほどの情報を生産するのだろうか
長期間かけて生み出された情報同士に、果たして整合性はあるのだろうか
もちろん、そんなものはないはずだ
人間は不合理で矛盾した生き物である
少なくとも僕はそう思う。
情報化する人間像に抵抗する方法は三つあるように思う。
一つは、情報は情報として保留し、ありのままの存在を認め合うこと
一つは、情報などお構いなしに各々が自分が好きなように突き進むこと
もう一つは、情報化されないようにお互いを隠すこと
どれが幸せなのか
言わなくてもわかる人たちが残っていることを願いたい。
2025年6月16日「交差点」
今住んでいるマンションの近くに、信号のない交差点がある。
大通りと小道が合流する横断歩道のある交差点だ。
朝から昼にかけて、そこにはパトカーが息をひそめていることを僕は知っている。
そして、およそ1時間に1回のペースで車両が止められる。
恐らく、横断歩道前で一時停止をしていないか、あるいは歩行者がいるにも関わらず前進してしまったからだろう。
交通安全を守り、交通ルールを周知するうえで必要なことは十分に理解する。
しかし、どこか申し訳なさを感じる。
運転がめちゃくちゃな人はたくさんいる
信号無視。コンビニの駐車場を使ったショートカット。スピード超過。
ただ、彼らは見つかっていない
たまたま、惰性で運転してしまった人がいる
彼らは見つかった
田舎の深夜の道路は、信号も歩行者もいない
車は皆、高速で通過していく
ただ、彼らは見つかっていない
権威というものは、ときにその存在を証明するために必要以上の自己主張を行う。
本当に、その権力行使は妥当なのだろうか。
権力行使の影響力と取りこぼされた問題に自覚的にならない限り、権力行使のたびに信頼が堕ちていくのではないか
現在の日本では、人の上に立つ人の教育が行われていないように感じる。
皆、誰かの下にいるときには文句を言い、いざ権力側に回ると自己弁護を始める。
権力者に見つかって自分が不利益を被らなければ、何をしてもいいのだろうか。
他人に迷惑をかけなければ、何をしてもいいのだろうか。
人の上に立つ教育がない限り、下の者は上に立つことの重大さを理解しない
それは、下の者としての振る舞いにも悪影響ではないだろうか
選挙が近い。
僕は誰にも期待できない。
政治家にも、国民にも、自分自身にも。
2025年6月15日「反省」
ただの言葉遊びでしかないが、日々生活していると、反省する人としない人に出会う。
自分はどちらなのだろうか。
この手の問題は、見かけによらない
他人の意見に素直に適応する人
自分自身で考えることを諦めている人
周囲の人と同調的であることを望む人
最近は、どこか反省していないように見える人々が、実は反省の達人なのではないかと思えてきた
彼らは権威主義的でご都合主義的に見えてならないが、そのような態度は反省の産物なのではないか
僕は反省しているふりをしている
他人の意見を吟味し、その真意を見極めようとし、自分自身の行動を振り返ってどうすればよかったのかを考える
これを人は反省と呼ぶかもしれないが、単なる現実逃避なのではないか
自分自身のことは自分自身では分からない
その事実を素直に受け入れて、他者の意見を取り入れ、コミュニティに浸透していく
本来反省がそのような行為のことを言うのであれば、自分は何をしているのだろう。
2025年6月14日「予定」
今日は予定がある。
嬉しい予定だ。
話は少し変わるが、僕は基本的に時間にルーズな方である。
遅刻はするし、遅刻されても何とも思わない。
むしろ、本を読める時間ができてラッキーくらいに思う。
もちろん、そう思わない人が大多数で、そちら側が一般的であることは十分に承知している。
問題は時間にルーズな僕が他人の予定に合わせる場合に生じる。
どうでもいい予定には、基本的に間に合わない。
間に合わなくていいと思っているわけではないのだが、どうにも体が動かない
ひどい時には、出発予定時刻に身支度を済ませて玄関に立っているのに、後ずさりしてキャンセルの連絡を送る
非常に申し訳ないが、本当なのだ。
相手には、非常に申し訳ない。
どうでもよくない予定には、すべてを犠牲にして間に合わせる。
具体的には、出発予定時刻まで、家を出るまで、寝ない。
すべては遅刻しないため。
仕方のない犠牲だ。
根底にあるのは、再現性かもしれない。
多くの人は当たり前のように、毎朝起きて日常生活を送る
気合なのだろうか。責任感なのだろうか。それとも、規則正しい生活というものだろうか。
僕はいまだに、明日が来る確信がない
もし仮に今日、朝早く起きれたからといって明日また早く起きれるとは思えない
だから、一日を切り上げずに、継続させることでしか、遅刻しないすべはない
果たして、明日は来るのだろうか。
2025年6月13日「引力」
自分探しは、経験的にも学術的にも意味がないらしい
ただ、どうにも無視できないほどに自分が存在している
そして、その強力な重力圏から脱出することができずにいる
気が付けばいつも引力に引き付けられて元通り
今回こそはと思っても、強力な引力には逆らえない
非生産的な自己から距離を取るべく、他人や社会、信仰に身をゆだねようと思う時がある
ただ、自己の引力はそれほど甘くない
常に僕を引き戻してしまう
いっそのこと自分を探し出して重力そのものを無効化しようとも思うが、それも上手くいかない
自分そのものは存在せず、外部との接触によって常に生成し続けるようだ
体が重いのは、この強力な重力のせいだろうか
どうすればこの強力な重力圏を破壊できるのだろうか
2025年6月12日「言葉」
時期が時期なだけに、将来何をしたいのか、将来どうしたいのかを聞かれることが多い
そして、答えに詰まると自らの人生を主体的に生きていない人間だとみなされているように感じる
色んな人が答える将来像を見聞きしてきた
ただ、将来について述べる人には共通点があるように思う
異性からちやほやされたい人
お金や権力を持ち、人の上に立ちたい人
社会的なステータスを身に着けたい人
そして、僕の将来像はそのどれでもない気がしている
では、自分は何がしたいのか
それは、言葉を残しておくことなのかもしれない
僕自身は、僕自身を残したいとは思わない
お金や地位や名声など、自分自身を記憶させる何かを獲得したいとも思わない
ただ、僕が発した言葉が、それを聞いた人の人生に何かしらの影響を与えるなら、それほど嬉しいことはないように思う
その言葉と僕自身を結びつける必要もないし、その言葉で人を洗脳し、何かを得ようとも思わない
ふとした瞬間に思考を展開する絶妙なキーワードを可能な限り残しておきたいのだ
今現在、僕がやりたいことはそれなのかもしれない
2025年6月11日「定常」
今日は心に余裕がある
嵐の前の静けさのように、定常状態のようだ
人間は、あるいは少なくとも自分は、すごく不思議で矛盾した人間だと思う
平穏な日々を送り、何事もなくゆったりと過ごしたいと思っているが、
いざ何事もない心理状態が到来すると、困惑する
このままではいけない
ルーティン化した快適な環境から抜け出さなくてはならない
そんな焦燥感に駆られる
少しずつ、やることを増やしていこうかな
なんだか日々同じことの繰り返しのように感じる
気付けばまたこの瞬間。毎日デジャブの繰り返し
繰り返しの毎日の中で時間感覚を失い、気付いた時には時間があっという間に過ぎ去っている
これではいけないのだ
予測不可能な変動に耐えながらもがく時間
安定したさざ波を感じ味わう時間
その両方のバランスをうまくとりながら、前に進んでいきたい
2025年6月10日「食欲」
行こう行こうと思っていた買い物にようやく行けた
なぜこんなにも腰が重いのか
自分でも不思議でならない
表面的にはスーパーのまぶしい白色光とその照り返し、騒々しい音楽が苦手
いつの間にか必要かも分からないものを買わされている気がするからかな
最近は食欲も特にない
空腹感は感じても、食べたいものがあまりない
味を想像するだけで、味を一口確かめるだけで満足してしまう
心のどこかで、自分自身に食べる価値を見出せていないのではないだろうか
昔の人はこれを罪の意識とでも呼んだのだろうか
そして、精神の救済を求めたのだろうか
明らかに栄養失調かなと感じることもあるが、ひと昔前の人々の精神性を感じられるなら
それでもいいかなと思っている自分もいる
食べたいものがあれば、食べよう。
2025年6月9日「軽快」
心が軽い
本を読み進めることができた
どっちが先なんだろう
本を読んだから、心に余裕ができたのか
心に余裕ができたから、本を読むことができたのか
いずれにせよ、読書は心にエネルギーを注入してくれる
なんだか、満たされた気分だ
2025年6月8日「不純物」
最近は4時に寝て9時に起きている
あまり寝むれない
今日は、研究発表の夢を見た
なんだろう。やっぱり、発表は好きだし研究も好きだ
聴衆を前にして話すあの景色は忘れられない
朝からなんだかやる気に満ちていた
ただ、いい一日になるかと思いきや、そうでもなかった
たったひとつのことをするのにも腰が重い
やるべきことはたくさんたまっているのに、なぜだろう
たぶん、やるべきことをこなした先に待ち受けている他者が怖いのだ
自分自身を物体として対象化しているようなまなざし
一挙手一投足がすべて評価の対象となってしまうようなまなざし
ロカンタンもこんな気分だったんだろうか
吐き気を感じる気もしてきたな
先週直面した他者性をいまだに解消できずにいるのかもしれない
今日中に、膿をすべて取り除きたい
九州から西日本にかけて雨が降るらしい。
気圧の変化による体調の不安定さを感じるのは気のせいだろうか。
深夜、配信が終わった後においしいものでも買いに行って、明日以降に備えよう
2025年6月7日「侵食」
人間が好き。他人が好き。自分の外部に存在しているものはすべて好き。
ところが油断していると、外部が内部を侵食しようとしてくる
自己と他者の境界をあいまいになり始める
侵食してくる他者性を排除するには少なくとも一週間の隔離が必要
我ながら、なんとも面倒くさい
いい具合に過ごしたものだ
先週かき乱された境界を、ようやく整備できてきた気がする
今週も頑張ろう
2025年6月6日「研究」
気が付けば金曜日
今週は、研究的にはいまいちな一週間だったかな
とにかく、頭が痛い。首が痛い。肩が痛い。
今日も今日とて、研究のあり方に悩む
仕事としての研究か、芸術としての研究か。
周囲の人が取り組んでいるのは、あくまで仕事としての研究
課題があって、チームで問題を解決しようとする。
大事なのは結果であって、依頼主の反応であって、その結果得られる報酬や評価である
問題解決のためには、他者との協力が不可欠であり、それゆえに人の命令を聞かなければならない。
報連相を徹底して行い、他者が要求する情報を常に発信し続けなければならない。
ただ、僕が志した研究とは、芸術としての研究なのかもしれない
打算的な思考を一切排除して、自然を純粋に記述するような研究
僕は、実験によって垣間見れる自然の神秘という享楽におぼれたい
その場には、自己なんてものは存在しない
自然の奴隷として、我々は自然の性質を記述するだけ
評価を求めて絵を描く芸術家はどこにいるのだろうか
真実の表現形式を求めた結果評価された芸術家は多いとしても、
その前後関係をひっくり返してはいけないように思う
もちろん、芸術性に付随する孤独に耐えられない人には、苦行以外の何事でもないようには思う。
僕もときどきつらくなる。
それでも、居心地の悪さに心地よさを覚えていたい
2025年6月5日「逃げ」
今週は、もしかすると、やらなきゃなあと思って先延ばしにしていた物事を解消する週なのかな
借金を返済している気分。
貯金ができればいいけれど、マイナスがゼロになるのも大切だよね
しんどいときは、大抵はやらなければならない物事から逃げているとき
いざそれに向き合ってみると、上手くはいかないにしても、気持ちは楽になる
結局、逃げてたんだなあ
結局、甘えだったんだなあ
さて、このような経験をしたことがある人も多いはず
だからこそ、気持ちの沈んだ人に対して甘えだと言ってしまう人もいるかもしれない
その気持ちは、まあ分からなくもないし、完全なる悪意で言ってくる人にはまだ会ったことがない。
背後には、みんなつらい状況から脱してほしいという思いやりがある気がする。
では、少なくとも自分自身にとって正しい内容を、他人に伝えることは正しいことなのだろうか。
その問いに対する答えは分からない
ただ、時間性に対する配慮が抜け落ちると、事態は悪化するような気がする
その人は、今、現在進行形で苦しんでいる
同じように苦しんで甘えだったと気が付いたのは過去の私で、それを伝えるのは今の私
そして、今の私は、今の相手を無理やり未来へと導こうとする
コントロールできない時間性をむやみに横断するのは、越権行為ではないかな
気持ちが沈んでいる期間は、弱い自分と向き合うための体力づくりの期間なのかも
あくまで、自分と相手の時間的な位相は合わせてほしい
あんまり、人の人生のネタバレばっかりしないでほしいね
2025年6月4日「生産」
固定ページを作ってみた
なんだか、作ってみたかったから
もしかしたら、支離滅裂な言葉の羅列になるかも
もしかしたら、詩のような形式をとるかも
どうなるかはよく分からないが、とりあえず日記のように書いてみる。
いつまで続くかな。
根底にあるのは生産に対する意識かも
日常生活における経験と読書によって情報を仕入れ、自分なりに咀嚼し、
ブログ、Podcast、生配信など、様々な形で出力してきた。
その瞬間はとても楽しい
自分の言葉が誰かに届いているなら、それも幸せだ
ただ、吐き出される言葉はどれも噓くさくてたまらない
なんだか、単に時間を消費するために言葉を乱発しているような感覚
自分なりの言葉を生産しているように見えて、実はずっと消費者でしかないのだろうか
現在から過去を見返すとき、その場に確かに存在し自分自身を支配していた文脈は消え去っている
そして、その文脈は容易には再生産できない。
ただ、文脈という空気感抜きにして当時の僕の言葉は意味をなさない
浮遊する言葉それ自身は、本当に自分自身の思考の産物なのだろうか
言葉によって構築された「私」というイメージは、本当に自分自身を投影しているのだろうか
言葉を発した瞬間、それは直ちに自分の外部へと飛び出していく
それはもはや、僕にとって他者だ
そんな感覚があるからか、他人とのコミュニケーションは基本的に上手くいかない
僕が放った言葉は、もう既に僕のものではないのだ
だから、自分自身の言葉を踏まえた指摘やアドバイスは、どこか虚しい
相手が自分自身に向けているベクトルは実は現在の自分自身に向いていないと感じながら、過去の自分の言葉であることには代わらないので、仕方なく自らその射程に飛び込んでいく意識が働くからかな
最近は、歌手やダンサーの気持ちがすごく気になる。
何回も同じ曲を歌い、同じ振付を踊る。それはなんだろう
自分の歌を歌い、ダンスを踊っている感覚があるのだろうか
それとも、歌わされ、踊らされているのだろうか
これまでは、文章化するまでもないちょっとした思考をPodcastなどで発信してきた
ただ、やっぱり文章として残しておくのが重要な気がしてきた
言葉に踊らされている感覚は、実体化されていない脳内の記憶を頼りに思考するからなのかも
文章を書くハードルを下げるために、言葉を生産し明確に記録しておくために、
このページをメモ代わりに使ってみようかな
というか、そもそもブログって、こういう文章のことをいうんだよなあ